クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー日本とは

「どこから来たの?中国?日本?」

「日本です」

「へー!船で来たの?」

これはアメリカに行った当初、母親が英会話教室で言われた言葉である。母親曰く「ちょっとした偏見を感じた」そうな。

そらそうだ。咸臨丸じゃあるまし。

 

当時アメリカの子ども達に人気だったのは”NINJA TURTLES “で、私も毎週テレビで見ていた。今でも主題歌を諳んじることはできるものの、ストーリーはなんとなくしか理解していない。

世界制服を企む悪の集団がいて、敵対する武術の達人(日本人)は特殊な薬品で鼠人間に変えられてしまう。ところがその薬品を浴びた亀が亀人間となり、武術の達人から手ほどきを受け、悪の集団との闘いを繰り広げる。

大まかにはそんなストーリーだ。

Turtles たちにはなぜかルネサンス期の画家の名前が付き、途中で出てくる鼠人間の友人は”Usagi”。Turtles たちの好物はsushi ではなくアメリカ人の大好きpizza で、それぞれ得意とする武器はレオナルドが両刀、ドナルドは杖術ミケランジェロはヌンチャク、ラファエロは2本の小刀。日本古来の武器であることすら怪しいものばかりだ。

私はNinjaの本場から来た人間なのだが、それを学校の友達に伝えようにもうまく伝わらない。そもそも忍者は隠密裏に任務を遂行するわけだが、アメコミの主人公よろしく正々堂々と悪と向き合い、格闘し、大爆発を起こす。どうしても"NINJA TURTLES"をもって日本のスパイである忍者を説明しづらい。

母親が、家に来た友達(アメリカ人)に「Ninjaは日本から来たんだよ」と言ったものの、彼は怪訝な顔をしていた。

 

アメリカでは父親がよくテレビでプロレスを見ていた。もちろん日本にもプロレスはあるが、日本のそれとは少し違う。私はあまり見ていない(というか母親が見るのを嫌っていた)が、むこうのプロレスは強い人間が賛美される。

時々小柄な東洋人レスラーが登場しても観客はどこ吹く風で、ヒーロー役の背が高く、上半身が逆三角形の白人レスラーがボカボカ叩くともう大盛り上がりとなる。東洋人レスラーはもっぱらやられ役で、最初だけ小さな身体で大きなレスラーを持ち上げて観客を感心させた後は大きな白人レスラーの餌食となるだけだった。

父親曰く「日本では『柔よく剛を制す』とか言って小柄な人間が頑張るだけで盛り上がるけど、こっちは違うんだなぁ」。

さて、東洋人レスラーもヒールとして登場するわけだが、これがまた日本人なのか、韓国人なのか、中国人なのかもわからない国籍不明人である。もしかしたら解説が言っているかもしれないのだが、少なくとも観客は何人だろうと関係ないのだろう。

 

アメリカは多国籍国家だと言うが、アメリカ人というのは日本以上に閉鎖的だなと思うことがよくあった。学校でもアメリカの州の名前を覚える歌はあったものの、他国の名称を覚えること、どこの国はどういう人種が多くてどんなcultureなのかなのかということにはあまり触れなかった気がする。会話は当然英語で、先生は特に他の国から来た子どもを差別もしないが、特段興味も持たない。

テレビで日本を紹介する番組をみたこともあるが、冒頭で「日本列島はまるで竜が横たわったような形です」という解説があり、よくできた例えだなと感心する一方で、「竜は日本じゃなく中国の仮想生物だろう」という気もした(当時はそこまで思わなかったが、それでも日本=竜には違和感を感じていた)。

結局、アメリカで感じた「日本」とは何だったか。それはアメリカ人は日本など歯牙にもかけていないということだった。 

‘90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー国旗って何?

アメリカの学校では毎日国歌斉唱があった。日本の入学式みたいなご大層なものではなく、1日の始まりのチャイム代わりに左胸に手を当てて国歌を歌うだけで、まあ朝礼代わりみたいなものだ。

そして歌が終わると「合衆国に忠誠を誓います」というようなことをみんなで唱える。とはいえ私はまだ7歳で難しい英語はわからない。ネイティブの子だってわかっていたかは謎である。


アメリカという国は何かと国旗を広げる国だなというのも印象的だった。個人の家には大抵、国旗を掲げるための巨大なポールがあって、ポールの先端には黄金のイーグルがいたりした。日本では国旗をどこで買えば良いかそれすらパッと思いつかないのだが、向こうではスーパーやら雑貨屋やらいたるところで国旗が売られていた。父もなんとなく買っていた。さらに州旗なんかもあり、州のオリジナルキャップなんかもあって面白い。

自然に国旗が好きになる環境は日本ではあまり考えられない。


‘I love my country the United States!’

そんな歌をよく聞いた。アメリカの50州を覚えられる歌。日本に都道府県を覚える歌があれば島根や鳥取知名度が少しは上がるかな。

当時私は平日をアメリカの学校へ、土曜日は日本人学校へ通っていた。

日本人学校には基本的に日本人しかいないと思われがちかもしれない。しかし、そこでもちょっとした不思議に直面する。

「今はとりあえず日本人ってことになってるけど、そのうちアメリカか日本のどっちか選ぶんだ」

聞けば両親は日本人だが、彼はアメリカで生まれたらしい。当然英語はネイティブだし、日本語も普通にできる。「選べる」というのは私の幼い頭では理解を超えたものだった。何せ私は日本人となることを選んだことはない。

ただ、なぜかそれは国家の境目を自分の意志で乗り越えられる自由な感じがして羨ましかった。


アメリカ滞在中に最もアメリカを感じたのは湾岸戦争だった。

すでに戦闘は始まっていたようだが、1991年の年明けくらいになると、学校でニュースが流されるようになった。

当然英語でブッシュ大統領が演説をし、次に国防長官だかが何か詳細を告げている。日本語でも理解できたかわからないニュースを英語で聞くわけだから何が起きたかさっぱりわからない。ただ、先生たちが真剣な顔をしているので、何か大変なことが起きたことを察するばかりだった。

母親によるとアメリカ人から「日本は金だけ出して何もしない」と言われたそうだ。その後、”Show me your flag!”というフレーズとともに日本は自衛隊の海外派兵に踏み切ることになる。

自由の国というのになんだか唐突なナショナリズムが芽生えるのがアメリカのような気がする。それとも普段は隠れているだけなのだろうか。


幼き日に異国で過ごした最大の価値は何かといえば、これだったかもしれない。国と国の見えない壁を越えるという。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー自由の国

7歳は日本では小学校1年生にあたる。日本の小学生は毎朝、上級生に引き連れられてぞろぞろと通学する。帰る時はどうするのだろう。私の時は帰る時は自由だった。

私が日本に戻ってきてから通った小学校では夏は白いハット、冬は男子のみ黒のツバ付制帽だった。冬帽は『サザエさん』でカツオがかぶっていた帽子を黒くしたイメージだ。服装は私服だったものの、男子は半ズボン、女子はスカートで、冬もマフラー禁止。長ズボンを履く時は親が連絡帳に「風邪を引いているので長ズボンを履かせます」と書いて先生に見せなくてはならなかった。


私はその小学校に入学していないものの、アメリカの学校へは最初半ズボンで行った。母親としてはそれが当然と思っていたわけだが、「日本人はなんてpoorなんだ。長ズボンを買えないから半ズボンを履かせているのか~」と勘違いされて、お古のジーンズをもらったりした。そんなわけで当時は半ズボンをやめて基本はジーンズにトレーナーという格好が多い。

向こうの子はやはり自由だった。ジーンズにシャツというラフな服装が多かったが、毎日シンデレラドレスのような服装の子もいた。

当時の母親によると、ディズニーの『シンデレラ』に出てきたようなラクダのコブみたいなドレスだけは禁止だそうな。それ以外ならOKとのこと。

そりゃそうだ、あれじゃ何もできん。


自由の国ではあったものの、子どもというのは半人前扱いなのでそれなりに大変さだった。

まず、州法によって子どもだけの留守番は禁止である。ちょっとした買い物も子どもを連れて出なくてはならない。うちの母親は、ほんの数分の場合のみ、われわれに声を立てるな、姿を外に見せるなと指示を出して近所で所用を済ませていたが、半人前がいると大人は困る。

一方で十何歳かになればベビーシッターとして金銭を得ることもできる。


もっとも子どもの側も困ることがあって、7歳だろうが一人前に見なされることで往生することもあった。

アメリカに行って半年くらいだろうか。母親がデイキャンプに行かないと言う。バスに乗って、アウトドアフィールドで、カヌーやらなんやらを体験できるらしい。わけはわからんが、せっかくアメリカまで来たわけなので参加することにした。妹は渋々だったようだ。

デイキャンプは10人くらいの班に分かれてアーチェリーをしたり馬に乗ったり、1アクティビティを1時間くらいやって、次へ行く方式だった。アーチェリーをやっても馬に乗っても、向こうの奴らは身体もゴツくて上手くやっていた。私はアーチェリーをやれば満足に引けず、馬に乗ればなぜか暴走し(おそらく食事中に呼ばれて機嫌が悪かった)、であまり良い思い出がない。


ある日、アーチェリーの後に不意に私は尿意を催した。今日いっぱいもたないことを悟った幼い私はリーダーに”Can I go to the toilet?”と訊いた。”Sure.”という言葉を聞くやトイレに駆け込んだ私が、戻ると誰もいなかった。

「うそやろ」である。ふらっとトイレに行けばその可能性もあったので、わざわざ告げて行ったのに。

その日、私は見失ったチームを探すのに、広いフィールドを半日がかりで駆け巡り、やっと探したらみんなは池でのんびりカヌーをしていた。

リーダーに配慮が足りないのか、それが当たり前なのかは未だにわからないが、その時私は「自由は重たいものだなぁ」と身をもって感じたのである。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ーワシントンD.C.

この文章はすべて記憶任せなので時系列も事実関係もどの程度正しいかわからない。何せ7歳だし、7歳が書いたと思って読んでほしい。

西・北と来たので今度は東に行ってみたい。東はワシントンD.C.まで行った。飛行機に乗ったのだろうか、車で行ったのだろうか。そのあたりは曖昧だ。ワシントンD.C.の印象はいきなりドーンと着いたような感じなのだ。

 

いきなりドーンと現れたのは国会議事堂、the Capitolだ。大理石の宮殿といった雰囲気で、こんなに美しい建物があったのかと思う。最初にワシントン記念塔(Washington Monument)に登り、議事堂を見下ろすと、宮殿とういか神殿といった荘厳さを感じた。

後に日本の国会議事堂を見た時は「なんと薄汚れた建物だ」と思ったのはこのthe Capitolとの対比からだ。日本も議事堂の中は綺麗らしいが私は入ったことがないのでわからない。一方でthe Capitolには入ってみたが、中も外とたがわぬ美しさで赤い絨毯が印象に残った。

 

次にホワイトハウスへ行った。大統領宅が公開されているところがアメリカというものだろう。日本の首相官邸が公開されることはあるのだろうか。部屋が色によって分けられていて、。当時の大統領はジョージ・H・W・ブッシュ、父親の方だ。

リンカーン記念館にも行った。リンカーンは我が住まいであるケンタッキーの英雄で、リンカーンの生家である丸小屋にも行った。リンカーンメモリアルもやはり大理石でできていて、真ん中には巨大なリンカーン像、建物脇には有名なゲティスバーグ演説が刻まれている。父親は8ミリビデオで熱心に撮っていた。

スミソニアン博物館にも入った。そこで何を覚えているかと言えば、たくさんの飛行機だった。銀色に光る爆撃機が巨大な倉庫の中で鎮座していた。本当はもっといろいろ展示物があったそうなのだが、時間がなくて、ばーっと見たら銀色に光る飛行機しか覚えていない。

 

ワシントンD.C.は美しい街だった。

西部とナイアガラはよく覚えていたので、2000文字を超える文になっているのに、ワシントンD.Cでは何があったかとんと思い出せない。

ホテルに泊まったこと。チェックアウトでばたばたしたことくらいだ。あとは議事堂周辺が綺麗だったこと、スミソニアン博物館はとんでもなく大きかったこと。

首都とはそういうものなのかもしれない。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ーナイアガラへ

前回、西部に行った話を書いた。我が家は10か月の間に実は東西南北かなりの場所に行っていて、北は五大湖のナイアガラが最北となる。今度は北へと向かってみたい。

 

五大湖へは自宅から車で向かった。ケンタッキー州から北上すると、オハイオ州に入る。

オハイオ州に入ったぞ。『オハヨー!』」

などとしょうもない話をしながら父親は車を走らせる。私たち兄妹は基本的にどこへ旅行するのかもわかってない。車に乗ってしまえば行先は砂漠なのか森なのかもわからないが、両親にお任せという具合だ。車内では日本から持ってきた「なぞなぞ本」でなぞなぞ大会をやり、それが終わるとしりとりゲームをした。

しばらくすると、車の周囲がうるさくなってきた。ヘリが飛んでいるのか、工事をしているのか。とにかく重低音が鳴り響き、うるさい。しばらくすると収まるかと思ったらどんどん大きくなる。車の行先を見ると、今まで晴れていたのが、霧に包まれている。なんだなんだ。

よく目を凝らすと、霧は飛沫であることがわかった。そしてそのうるさい音は滝の落ちる音だった。私たちはナイアガラに着いたのだ。

 

ナイアガラの滝にはアメリカ側とカナダ側の2つに分けられる。アメリカ側は規模も小さく、水量も少ない。一方のカナダ側は屏風のように水の幕が張っており、すさまじい飛沫を上げている。まるで海の一部が陥没したかのようだ。

日本で滝と言えば縦に細長い流れを指すものと思っていた。日本一の称名滝華厳の滝那智の滝も一様に川幅より縦に長い。ナイアガラはそんな7歳の固定概念を打ち崩すものだった。

何を御大層にと言われるかもしれない。世界にはイグアスのようにもっと大きい滝はあるぞと。その辺はまだ子どもの感想と思って多めに見ていただきたい。

車を降りると、さっそく滝見物をした。レンタルの黄色いカッパを着て、アメリカ側の滝を見物できる遊歩道を歩く。アメリカ側は小さいと書いたが、それでも飛沫があたると痛いくらいの勢いがある。もっと大きなカナダ側はどうなるものかと興味と恐怖心が芽生えた。

カナダ側に遊歩道はない。ほっとしたような残念なような。その代わりにカナダ側は船で滝の間近まで行くことができる。船に乗ると、何とも心もとないものだった。吸い込まれるように滝にぶつかれば沈みそうだ。いや間違いなく沈む。

船は何隻かあって前の船が限界まで近づくと引き返してくる。次の船が近づくという繰り返し。私たちの船の番が来た。滝の白い飛沫に向かって近づいていく。前の船が行くのを見た時は「すげー!」と感じたのだが、残念ながら自分の船の番になるとそれほど感動がない。近づき過ぎると飛沫で周囲が白いだけで、何も見えないからだ。ちょっと肩透かしである。感動の具合からすると、アメリカ側の痛い飛沫を受けた時が一番だった。

 

ナイアガラで印象的だったのは、滝そのものだけではない。滝見物の後は映画を見た。マリリン・モンロー主演の"Niagara"である。

筋書はほとんど覚えていない。というか当時の英語力でこの映画を理解するのは不可能だった。そういうわけで、ストーリーを調べてここに書いてもよいのだが、それはしない。

とにかくラストシーンが印象的だ。モンロー演じるヒロインがナイアガラの落ち口寸前の岩にしがみつき、男が船に乗ったまま滝つぼへと落下する。子ども心に「うひゃー!」と思った。あの滝つぼに落ちたら死んでしまう。ストーリーの中でも男は死んでしまうのだが、ついさっき見たばかりなので説得力がある。間違ってもあの男は「実は生きてたよ」などと再登場はできない。

さっきWikipediaでストーリーを念のため見たが、やはりサッパリ思い当たるところはなかった。この映画はやはり「滝から落ちる話」なのだ。

 

映画の後はカナダ側にわたった。なんだか簡単に国境を越えた気がする。

カナダ側では博物館に行った。それほど大層な展示物はなかったのだが、印象的だったのは蝋人形である。それはナイアガラから落下して見た男たちというもので、彼らは頑丈な樽の中に身体を入れ、滝の上から落ちるという挑戦をしたようだった。

「えーっと。この人は死んだようやな」

父親が解説を読んで説明する。樽には通気口みたいなものが付いていて、それぞれが創意工夫を凝らしたようだった。

「えー、この人も死んだみたい」

まったく意味不明である。山なら登りたいとか、ジャングルなら探検して未知の滝を発見したいとかあるかもしれないが、滝があるか落ちてみたいというのは一体何なんだ!?

「あー、この人は生きてたみたい」

ようやく生還した人がいた。

「ただこの人もう一回行って死んだらしい」

もう意味わからんぞ。なぜ一回成功したことをもう一回やるのだ。

先ほどの映画とこの展示物のおかげで、ナイアガラは風光明媚な滝という印象とともに人間を飲み込む不気味な印象が私の中に残った。

そうは言っても滝が人を飲み込んだわけではない。ナイアガラはずっと大量の水を落とし続けているだけなのだ。そこになぜか人が飲み込まれて行っているわけで、ナイアガラの不思議というより人間の不思議を感じた旅だったと言い換えても良いかもしれない。

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー西部へ行く

アメリカを含む欧米の学校は概ね6月から8月は夏休みとなる。4月に入学した私はたった2か月で長期休みに入ってしまった。月曜から金曜はアメリカの学校で、土曜日は日本人学校に行っていたので、3か月まるまるの休みというわけではなかったが、それでも日本では考えられないくらいの長期休みを手にしたのだ。

今でも元気だが、もっと元気だった我が父は家族を連れてアメリカのあちこちを旅行した。わずかな滞在期間だったのにもかかわらず、今からするとよく出かけたものだと感心するやら呆れるやらである。

その中で、アメリカ西部に行った時のことを書きたい。

 

アメリカ西部で行ったのはアリゾナなどの砂漠地帯である。飛行機で飛び、飛行場でレンタカーを借りて旅行した。行ったのはモニュメントバレーやグランドキャニオン、最後にラスベガスということで、観光旅行では定番メニューである。

飛行場に着き、レンタカーに乗り込むとすぐにあたりは赤茶けた砂漠に変わった。後年、映画「駅馬車」を見たが、あのままの風景である。ただ、砂漠を楽しむにはそれなりの歴史の知識や教養が必要となる。早い話が砂漠は何もないエリアなので、すぐに飽きてしまったのだ。

基本は砂漠地帯なので地平線の先まで何もない。日本なら道と道には電柱が立っているが、そんなものもない。青い空があって茶色い地面があり、舗装路がひたすら一直線に伸びている。父親はひたすら「西部劇の世界や」とか言って感動していたが、7歳にそんな感動は通じず、ずっと手元にあるバットマンのポケットゲームをしていた。

地平線の先を見つめると、何か人工物が目に入った。砂漠にほとほと飽きていたので、目を凝らす。徐々にその人工物が近づいてくる。「なんだなんだ」と少し身を乗り出すと、それはマクドナルドの店舗だった。

砂漠の真ん中にマクドナルド?それが私の最も印象的な光景であった。

 

正直な話、モニュメントバレーはあまり感動しなかった。砂漠に突き出た巨大な岩であって、特に面白いものではない。何しろ遠くにあるので、当時の私にはその大きさを感じないのだ。

それ以上に面白かったのはグランドキャニオンで、渓谷の中を流れる白い流れを見ていると、この谷の中には何があるのかと想像が膨らんで楽しかった。

こういった名所の他に、父親は恐竜の足跡を見に行くというイベントも用意してくれた。おそらく子どもたちが退屈しているのを見て取ったのだろう。日本にいた時から私はヒサクニヒコさんの恐竜の本が好きで、講演を聞きに行ったこともあった。砂漠に飽きていた私にはこの旅行最大のイベントとなった。

カーナビなんかはまだなかったので、「足跡」までは地図を広げて向かう。日本のように「恐竜の足跡 この先20km」とかいう看板は立っていない。周りは相変わらずの砂漠で、こんなところでガス欠になったらと考えると恐ろしくなる。

地図に従って道を進むと、舗装道路が切れてダートになる。「ほんまにこっちか?」と父親も少し不安になったようだ。それもで夕暮れ迫る中、車を進めるとなんだか小さな看板が立っていて、「何の標識だ?」と見るとそこが恐竜の足跡のあるところだった。

「恐竜の足跡」と言って何を想像するだろう。おそらく三本指の鶏の足跡の大きなものや、子どもなら中に入ることができるくらいの窪みだろうか。

そこあったもの。それは砂漠に空いたちょっとした穴だった。昨日雨がふって陥没したと言ってもわからないくらいのただの穴。しかも薄汚れた板切れに何か書いてあるだけで、どんな恐竜かもわからない。

日本ならたちまち博物館ができて、足跡は保存するためのガラスケースに入れられ、生きていたころの姿を再現した模型やその恐竜が食べていたであろう食物の解説が詳細に書かれ、果ては恐竜饅頭に恐竜手拭いが発売されそうなところだが、こういうところがアメリカである。

「どこが?」などと訊かないでほしい。こういうところである。

 

西部最後の観光はラスベガスだった。正直な話、何泊の旅行だったかも覚えていないが、ラスベガスが最後だった。

ラスベガスに着いたのは夜で、今まで街灯もない真っ暗闇を走っていた車を突然光の渦が取り囲んだ。夢のようなというより、何か異様な感じがした。さっきまで車のライト以外は漆黒と言っても良いくらいの闇だったのだ。

高いビルが立ち並び、車道の脇には巨大なネオンの看板が並んでいる。中でもピエロの看板が妙に印象的で、異様さを一層増しているような気がした。

後に何かの文章で、ラスベガスの明かりは漆黒の闇に押しつぶされないように光を放ち続けているというような記述を見て、大いに納得した。この街の明かりは、辺りを闇に包まれないように、燃え続ける星のような感じがする。

当時はラスベガスがカジノの街だなんて知らないし、知っていても子どもがカジノに行けるわけがない。「最後の晩はちょっと贅沢しようか」などと話していた両親だったが、着いた時刻も遅く、ほとんど客のいないレストランでピザとパスタを食べてモーテルに入るとすぐに寝てしまった。

 

 もし20歳を過ぎて同じ旅行をしたら、モニュメントバレーにジョン・ウェインの姿を重ねて、もっと感動したかもしれない。ラスベガスではスロットでもやろうかという気になったかもしれない。

ただ、マクドナルドに感動したり、グランドキャニオンの谷底を想像したりはしないだろう。この年だったから感じたもの、考えたことがあったことは確かな気がする。

‘90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ーアメリカに住む

私たちが住んだのはケンタッキー州レキシントンという街だ。

住まいは学校裏の閑静なアパートで、アパートであったものの、玄関へ続く石段は各家で別れており、中も二階建てで、極めて一軒家に近かった。

玄関をくぐると廊下があり、右手にダイニングキッチン、左手は二階へ続く階段。ダイニングキッチンには日本で見たこともない天井ファンが付いている。キッチンは渦巻式の電磁調理器と食洗器があった。当時は食洗器のある家が珍しかったので、これにも驚いた。

廊下の突き当りはリビングで、ソファや家具は備え付け。日本のように天井には照明がなく、すべて白熱球の笠のついたランプだけだったので、暗いときは少々往生することになる。

リビングの窓からは芝生と木々が見える。芝生は時々刈る必要があり、それは夫の仕事である。芝が伸びていると「あの家の夫は甲斐性がない」とされるらしい。ただ、芝刈り機をわざわざ買うのももったいないので、うちでは近所に住む日本人家族から機械を借りていたようだ。

アパートとはいえ、庭付きでなかなか自然豊かだった。庭には時折、リスやチップモンクが現れ、夏になると蛍が乱舞して、部屋の中にも入ってきた。

 

私と妹はアメリカに住むなり、すぐに学校へ入ることとなった。私は小学校1年生になる年だったが、英語が全く話せないということでkindergarden、つまり幼稚園に入れられた。妹は1歳5か月違いで、幼稚園の年少組。日本で卒園してきたばかりなのでやや納得いかないが、英語がまったくできないので仕方ない。

日本人に英語コンプレックスの人は多いが、それでも大抵の人は中学と高校だけで6年は学習している。大学に行けばプラス2年も付くし、最近は小学校でも英語教育があるそうだから、年数だけは伸びている。しかし、それでもコンプレックスを持つ人が多いのは、単に日本国内では使う必要がないからだ。

私は当時7歳。英語どころか日本語もひらがなとカタカナしか書けないし、何が英語で何が日本語かの区別もつかない状態で、英語社会に放り込まれた。良くも悪くもアメリカでは英語以外は通じない。日本で日本語しか通じないのと同じである。おまけに日本人が英語を少しは理解しようとするのに対して、アメリカ人は日本語なんか端から理解しようとしない。私は7歳ながら大変な事態になったことに気づいた。

 

初めて学校(幼稚園だけど、一応学校と表現する)へ行くと、先生がデカかった。先生は2人いて、1人は白髪で細身長身のおばあちゃん先生。もう1人は金髪でがっしりした体格のこちらも女性の先生。おばあちゃん先生は170cmはあっただろう。うちの両親がやけに小さく見えた。

周りの子どもも一様にデカい。私は日本では平均より大きかったが、こちらでは小柄な部類になる。おまけに金髪、青い目の子もいれば、チリチリヘアーで色の黒い子もいる。東洋人はほとんどいなかった気がする。

成田から乗った飛行機を降りる際に私たち兄妹は母親からこんな注意を受けていた。

「降りたら髪の金色の人とか目の青い人がいるけど、笑ったりしたらアカンよ!」

今よりずっと賢かった当時の私にそんな注意は無用だった。飛行機から降りた瞬間から自分たちの方がマイノリティーであることが明らかだったからだ。そして、学校に行ってからも自分は少数派中の少数派、おまけに英語も話せない珍しい奴であることを即座に理解した。

 

さて、最初は同じ教室に日本人がいたので、困ったとき(主に困るのは先生の方だが)は彼に少し通訳してもらった。ただ、7歳児の言葉を7歳児が通訳するのだからたかが知れている。おまけに彼はある程度英語の上達が認められたので、小学校のクラスへと移って行ってしった*1。私が自分の意思を伝えるには自分で英語を覚えるしかなかった。

辞書も引けない少年がどうやって英語を覚える唯一の方法は通じる言葉を探すことだった。日本語でもカタカナで書くものの中には英語が混じっていることを何となく察していた。とにかくカタカナ言葉を発してみて、相手の顔をうかがう。「何を言っとるねん」という顔をされたらそれは英語ではない。「あー!」という顔をされたらそれが英語なのだ。

これは大人にはわからない根気のいる作業である。大人なら辞書を引けるし、"What's ××?"と訊くこともできる。しかし、7歳の私にできることは手持ちのわずかな知識を駆使して英語を地道に探索することだけだった。

こう書くといかにも独習で英語を習得したようだが、体系だった英語ではないので日本に戻ってからはすっかり忘れてしまった。

ただ、面白いのは、日本語すら怪しい状態でいろいろ覚えたので、いまだに日本語より英語の方が先に出る言葉があることだ。例えば、私は「教会」より先に'church'という言葉を聞いたので、今でもchurchの方がしっくりくる。滞在時期も最後の方になると'cow'は日本語で何だったか思い出せないこともあった。

英語の早期教育の是非がしばしば取り上げられるが、個人的な意見としては、言語は通じることが重要なのだから、早めにやっても問題はないと思う。日本語が完全に固まると、日本語から英語を理解しようとするので、どうしてもコミュニケーションのスピードが遅くなる。それに日本では「口から先に生まれたような」は悪口だが、アメリカでは先に口を出さないと立ち遅れる。テキトーでも伝えることがアメリカ社会では重要だと知ったのは語学力以上の収穫だったかもしれない。

*1:その学校は小学校と幼稚園が同じ建物内にあった