クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

残念な名所

「三大がっかり名所」と言うものがあるらしい。

播磨屋橋(高知)②オランダ坂(長崎)③札幌時計台(北海道)

この中で、私が行ったことがあるのはオランダ坂播磨屋橋は行ったかもしれないが記憶にない。札幌時計台については機会はあったが行っていない。オランダ坂も通ったはずだが写真も残っていない。

これらすべてに共通するのは規模の小ささである。大きい名所はとにかく大きいことに価値を見いだせるが、小さいと救いようがない。

 

最近、宮田珠己さんの『晴れた日は巨大仏を見に』を読んだが、全国津々浦々大きいものに対する憧れはあるようだ。いくら信仰心があってもそれを仏像の大きさに表現しなくてもいいだろうと思う。それでも日本最大とかになるとそれなりに見に行きたくなるから不思議だ。大きいというアドバンテージは生理的な魅力なのだろう。

そうは言っても大きいが残念な名所は存在する。今回は私的名所として、「大きいがそれでもなお残念な名所」を紹介したい。ちなみに紹介しておいてなんだが、行ってがっかりしているので多くの場合、写真を撮っていない。

 

1.渡月橋(京都)

2時間ドラマの定番シーンに使われる名所である。亀山天皇が付けた優美な名前とともに桜や紅葉の時期の写真には欠かせない存在となっている。「京都人の心、渡月橋を冒涜するとはこの不届者!成敗してくれる!」と闇討ちにされそうで怖い。

私が渡月橋を見に行ったのは大学卒業を間近にしたころである。毎日京都に通っていたのにほとんど観光をしなかったので、最後に名所見物をしておこうと友達と出かけたのだ。京都市内を南北を貫く市営地下鉄烏丸線今出川駅からはるばる歩いて嵐山を目指した。

嵐山の市街に近づくと急に観光地ムードが出てくる。それまで平凡な郊外のアスファルトを歩いていたので、唐突という感じがする。歩を進めるといよいよ「渡月橋」という表示が見えてきた。

「あれっ」

桂川が見える。その上に橋が架かっているが、普通のアスファルトだ。鴨川に架かる何本もの橋と何ら変わりがない。月を渡る橋ではないのか。

橋から少し離れ、南側から橋を眺めてみる。ようやくサスペンスドラマでおなじみの画にたどり着いたが、最初に受けた落胆をぬぐうことはできなかった。

橋を名所にするのは難しいらしい。大きいとという意味では明石海峡大橋(兵庫)、瀬戸大橋(岡山-香川)など島と島を結ぶ橋があり、古風で優美という意味では錦帯橋(山口)があり、近代的でレトロという意味では勝鬨橋(東京)などがある。勝鬨橋昭和15年完成なので、昭和9年完成の渡月橋より後輩にあたるが、当時の日本の技術を結集した可動橋という点が大きい。

結局、渡月橋が抜きんでるのは亀山天皇に由来する名前だけと言える。しかし、表面をアスファルトで覆い、車両がガンガン通る橋に800年前の風情を見出すのは難しい。テレビでよく映る、川からの京都らしいアングルと路上の光景のギャップががっかりを助長している。

 これが人しか通らない小さな橋だったらこうはならなかっただろう。京都らしい風情を残すのは徒歩で渡る橋でなくてはならない。

 

2.大阪城

おそらく日本史上最強の城は大坂城だろう。城攻めの名手である豊臣秀吉が築城し、大坂の陣では数十万の徳川方に力攻めの攻城を諦めさせた。現在も内堀や外堀は地名に残っているが、とんでもない規模だ。町を要塞化するという手法は秀吉が始め、家康が江戸で模倣した。そして以降類例はなく、その街の発展は現代の二大都市に続いている。

 

そのシンボルである現大阪城(大阪と大坂を一応使い分けている)の天守閣だが、これはなかなかがっかりである。もともとオリジナルの大坂城大坂の陣で焼失し、その後大坂城代として使われた。現大阪城は戦後に大阪商人が建てたものである。

今の大阪城は秀吉の大坂城の上に建っている。上と言っても他の名古屋や熊本のように石垣は当時のままというわくではなく、秀吉の城は地中に埋れているのだ。大阪の礎を築いた太閤秀吉も複雑な心境に違いない。

商人の町としてシンボリックな名所と言えるのだが、さらに今の大阪城は背中に「小泣ジジイ」を背負っている。「小泣ジジイ」とは何か。それはエレベーターである。まるでガンダムが砲塔を背負うように、べったりと城に付いている。確かサミットの時あたりに設置されたような記憶があるが、めちゃくちゃに調和を壊すこの設備は、世界の調和を壊す強国たちが集うサミットの象徴のような気がした。

このエレベーターを見たら秀吉は怒るより泣いてしまうだろう。

 

3.飛鳥大仏

ちょっと趣向を変えてみよう。これは残念とまでいかないが、見る人によっては残念になるというものだ。

私が飛鳥大仏を訪れたのは小学生の社会科見学だった。石舞台古墳高松塚古墳、亀石や鬼の俎を訪れる定番コースだった。もちろんその中には飛鳥大仏もあった。

飛鳥大仏があるのは通称「飛鳥寺」、正式には法興寺。大仏は都の移転の際も明日香に取り残され、現代に至っている。飛鳥大仏は資料集などで見ると大きさを感じない。他の大仏が見上げるアングルで撮られているのに対して大仏の目線とほぼ同じ高さから撮られているからだ。それでも明日香では随一の大仏である。実物を期待しながら訪れた。

法興寺は大仏殿があるのかと思ったら普通の寺だった。そして金堂の入口をくぐると飛鳥大仏があった。

「あった」と軽く言ってしまったが、まあ大きかった。坐像だが3メートルくらいある。ただ、小学生だったわれわれは「でけー」とか「すげー」とか言わない。黒光りする厳めしいお顔で、でかいのだが瞠目するほどではない。

これはひとえに東大寺の大仏が影響している。東大寺の大仏を見た後では3メートル弱くらいの大仏は中型くらいにしか見えない。東大寺の大仏より表情はしまっており、スリムな体型なのだが、小学生には横綱を見た後に十両の相撲取りを見たような感覚になってしまう。

ちなみに「大仏」とはお釈迦様より大きな仏像を指す。お釈迦様は身長3メートルくらいあったらしいのでそれより大きければ大仏認定となる。坐像で3メートル弱の飛鳥大仏も立派に認定である。

飛鳥大仏は日本最古の大仏で、東大寺の大仏より随分先輩である。鋳造当時は敵なしだったに違いない。少し離れた所に巨大な後輩が登場したことで割りを食った少し哀愁の先輩なのだ。

 

4.日本橋

東に目を向けてみよう。東京の名所は期待以上、期待未満の落差が大きいのが特徴だ。それはコンクリートジャングルに囲まれて、異常に小さく見えるものと、少し周りから隔絶されていい雰囲気のところが分かれるからだ。東京の人にあまり意識はないが、大阪に比べると公園や庭園などの緑は意外と多いと思う。

ただ、東京中のがっかりを代表できるのが日本橋である。これは一言「無残」としか言いようがない。何しろ上に高速道路が走っているのだから。

歌川広重の『東海道五十三次』の始めに描かれる日本橋は木製で、山口の錦帯橋を思わせる姿である。その後、明治に入ってからは石造りの橋に変わるが、デザインを重視する姿勢は変わらない。日本一の橋なのだ。

その姿勢が一変するのは戦後である。川は、空襲によって発生した瓦礫の廃棄場所になり、高度経済成長期には都心の空きスペースとして高速道路が建造された。その中で日本橋も例外ではなく川とともに高速道路に覆い隠されたのだ。

 

ちなみに大阪にも日本橋はあるが、こちらは「にっぽんばし」だ。関西では東京秋葉原のような電器街として知られているが、橋は東京のそれより古く、一応由緒正しい橋であるが、こちらもビルに囲まれて肩身狭く川を渡している。

東京と大阪という日本の二大都市の共通項は「水の都市」であったことだ。これらの都市の発展には「水」が不可欠だった。江戸時代に入り、農耕技術が向上すると、農村を出た人々が都市に流入した。これまで2人でやっていた仕事を1人でこなせるようになれば、土地を持たない人々は都市へ向かうしかない。さらに戦乱のない江戸時代は世界最大の都市を次々に構築することになる。

都市の巨大化に欠かせないのは「水」だ。飲用はもちろん、水路によって大量に物資を運びこまなければ、都市はたちまち枯渇してしまう。大阪日本橋も都市水路である道頓堀川に架かる橋だ。

東京と大阪両者の「日本橋」の現状を見れば、日本人の川に向かう姿勢がおおよそわかるのである。

 

5.襟裳岬

 個人的な「がっかり名所」を集めていたら意外とメジャー級のところが集まってしまった。「がっかり」は期待と実際の落差だ。そもそもメジャー級にしか期待が集まらないのでそうなってしまう。さらに、写真いっぱいの観光マップを見たりすると、過度な期待に拍車がかかる。一番いいアングルを写真で先に見ると実物が余計にちっぽけに見えてしまうのだ。

 では、先入観なしに訪れたらどうか。それでも残念な結果になることは往々にしてあるのだ。最後に本人(人ではないが)に罪はないのに残念になってしまった名所を紹介したい。


私が1人で北海道を自転車で旅したのは学生時代最後の夏だった。舞鶴からフェリーに乗り、小樽から知床を目指す、学生にふさわしい旅行だった。真打知床を堪能し、二週間の旅最後の目標として襟裳岬に向かった。

帯広から南下し、襟裳岬に通じる海岸線の道は黄金道路と呼ばれる。金が採れたわけではなく、また黄金のように美しいからというわけでもなく、黄金をばら撒くように資金のかかった道路というのが由来らしい。道は確かに険しい海岸線を抉るように造られ、工事の困難をうかがわせていた。

襟裳岬は霧で有名だ。地理上、霧が発生しやすく、なかなか晴れない。私が岬に向かったその日は曇っていて、本州方面を眺めるというのは絶望的だった。海岸線をジグザグに行き、いい加減飽きたところで襟裳岬が近づいてきた。

岬は険しい海岸線の先端だけあってゴツゴツした岩が海に張り出しており、その根元には観光資料館と数軒の土産物屋兼食堂があった。雲のせいか少し寂れて見えた。

さらにペダルを漕ぎ、岬が迫って来ると寂れた雰囲気を切り裂くような音響が辺りに響き出した。

「なんやこら!」

この北の大地の辺境に一体何が、と思っていると土産物屋の間にあるスピーカーが吐き出す森進一の「襟裳岬」だった。

最初は北海道ゆかりの曲でも流しているのかと鷹揚に構えていたのだが、岬の突端に行って戻ってきてもまだ鳴っている。どうやらエンドレスでリピートしているらしい。襟裳岬は森進一が支えねばならないらしい。

演歌が特段好きではないというのもあるが、好みの押し売りのようなこの観光施策はどうかと思った。襟裳岬は歌などに頼らなくても、訪れる人それぞれの襟裳岬に任せれば良いのだ。あの音響がなければ私の襟裳岬はもっと違うものになっただろうと思えてならない。


旅はそれぞれの物語だ。日常の中でただの脇役だったり、ただの通行人だったりする個人が、ひと時の間主人公となる瞬間である。

残念になってしまった名所は地元の人が無闇に押し付けた価値観を旅の主体たる旅人に受け入れなかった結果なのだと思う。