なんだかバタバタしているうちにゴールデンウィークが終わっていた。
今度はいつの間にか梅雨に入って、紫陽花が咲いて散って、夏になっていてということになるのだろう。
梅雨と言えば読書になるわけだが、常々感じるのは登山者、特に1人で登る人に読書家が多い。リサーチしたわけではないのだけど、山に何かしらの本を携えて来る人が多いのだ。
これはなぜだろうか?
私の山友はみんな1人でも山を楽しめる人が多い。
急に思い立って山に行く。そうなると必然的に1人となる。行きも帰りも1人。その時間を読書に充てる。
スマートフォンは行き帰り、場合によっては5時間以上もかかる道のりで見続けることはできない。薄い文庫本くらいがいい。
さる山友は山小屋で山崎豊子『大地の子』を読んでいた。よくあんな重い本(物理的ではなく内容的に)を読むなと思ったが、山は読書空間としては気が散らなくていいのかもしれない。
また、他の山友には星野道夫を勧められた。あの綺麗な文章は確かに山に合う。
しかし、登山と読書の関係を考えるに、1人で歩く時間というものが最も大きいのではないだろうか。
1人で歩く。1人で休む。1人で景色を眺める。
全ては自分の中での対話となる。自分の中に対話の原資となる言葉がないとただ退屈な時間を過ごすだけとなってしまう。
行き帰りに他者の言葉を自分に取り入れ、自分の中で回す。本は登山者にとってそのためにあるのだろう。
人間の半分は言葉でできているとさる哲学者が言ったらしい。それでいくと単独登山者の8割くらいは言葉でできているような気がする。