クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

無知と知

時事ネタがわからないと書いたが、人生の中で時々自分の無知を実感することがある。これは誰しもだろうが、誰もが知っている中での自分の無知は時にある種の劣等感になったりもする。

 

私が最初にこの劣等感に出会ったのは幼少時代のアメリカ滞在時やそこからの帰国時だが、これはさほど大きな問題ではない。自分の環境が短期間に大きく変化しただけで、自分が他者より優れているとか劣っているとかいう考えすらなかったからだ。この感覚を一番激しく持ったのはやはり就活の時期だろう。

弱小大学の文学部だった私は三回生の途中でなんとなく就活を始めたが、適切なアドバイスを求められる人は周囲には一切いなかった。何しろ学生数が高校より少ない大学なので企業との有力なコネクションもなく、一般企業に就職したOBの割合も少ない。大学の就職実績はホームページ等に掲載されているが、私が結果的に就職した企業名がかなり長期にわたって載り続けたこと(私の前後に誰もいない)を見てもいかに就職に向かない大学だったかがわかる。

仕方がないので就活本などを読んでわかった気になるのだが、実際に企業を訪れると他の学生が知っていて自分の知らない壁にぶち当たることになる。

 

関西の有名企業にネットにエントリーした時の話だ。ある日その企業の社員を名乗る人からメールが入った。すわ成りすましかと身構えてその企業の採用担当者はOB訪問をしてもらう取り組みですと言う。「服装も普段着でいいので気軽に会ってみてください」と言う明るい女性担当者の声に、私は気楽に会ってみることにした。

待ち合わせは大阪駅近辺の喫茶店だったような気がする。仰せの通りの普段着で向かった私は喫茶店の周辺に来ると不穏な気配を感じた。なんだかリクルートスーツの学生とおぼしき若者が不自然に多いのだ。待ち合わせの喫茶店に向かい、その有名企業社員の人と顔を合わせたあたりでようやく悟った。喫茶店の隣もその隣もリクルートスーツと普通のスーツ姿の人間ばかりだ。こんな人種ばかりの喫茶店はない。これは応募した大量の学生を若手社員と会わせ、第一弾のふるいにかけるためのいわば面接だった。

私の相手をした社員は明らかに私の服装や心構えを見て軽侮していただろう。会話も全く噛み合わず、ただ決まっていたであろう時間を消費して終わった。

あれは何だったのか。私はその企業の採用戦略を事前にリサーチしているか、そして社会人同士で会う際の常識を試される試験なのだと理解している。

 

しばしば「日本の常識、世界の非常識」と言われる。なんとかかんとか就職して最初の新入社員研修で顕著に感じたことがある。新入社員研修なんて何回も受ける人はいないので比較はできないが、私の入った企業は熱海にある研修センターで朝からジョギングしながら社名を連呼するというどこぞの新興宗教のような研修だった。

まあ別にジョギングが研修本体ではなく、最初にやったのは名刺交換である。トレーナーである先輩社員が手本を見せ、みんなそれに従うのだが、あれほど珍妙な光景はない。今でも不可思議だと思う。あれが日本全国の企業で何十年にもわたって行われていると思うと、おかしさがこみ上げてくる。

おかしさの源泉はお辞儀だ。話は逸れるがかつてケイン小杉のお父さんショー小杉が出演した"NINJA"という映画を見たことがある。ストーリーは、ショー小杉演じる忍者の父が悪党の奸智によって殺され、息子忍者が敵を討ちというものだ。そこにアメリカ人の白人カップルがからんで、というか忍者は英語を話さないのでこのカップルが主役なのだが、おおよそそんなイメージで十分だ。

最後にショー小杉が敵討ちを成功させ、危機に陥った白人カップルも助かってめでたしめでたしとなるのだが、ラストシーンが印象的だった。助かった白人カップル(にやけたイケメンとセクシーな美女)が黒装束のショー小杉に向かってお辞儀する。まるで取って付けたようにデパートの店員のように身体を折って頭を下げる2人。それに対して何も反応しないショー小杉。

「日本人にお礼をするならお辞儀だろう」という安直な発想だが、それを笑えないくらい我々はペコペコしている。事実、今日は社内研修で20回はお辞儀した。お辞儀=礼儀。奇妙な、珍妙な日本の礼儀だ。

 

さて、お辞儀を忘れると「礼儀知らず」と言われる日本だ。先の就活の件も知らないことで何とも言えない気分を味わった。では知ることが全てかというとそうでない気がする。礼儀を万事心得た社会人となるに従って、日本式名刺交換の滑稽さには気がつかなくなる。無知のうちは気になるおかしみが知に変わる瞬間に常識になり、滑稽さに気づかなくなる。知の山の脇には必ず無知の谷が眠るのだ。

常に俯瞰的に見れば、客観性を持てばいいと言えば単純だが、人は自分の目でしか物事を見ることはできない。少なくともその無知の谷間が眠ることくらいは心に留めて今日の眠りに就きたい。