クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

人生を真面目に生きることについて考える

去年からどうもずっと忙しい気がする。

梅が咲き、桜が咲き、躑躅が咲き、紫陽花が咲き、向日葵が咲き、金木犀が咲き、曼珠沙華が咲いていたと思ったらもう冬が間近になっていた。

どうやら私は"真面目"な奴と思われているのか、どかどか仕事が降ってきて、結果、どんどん仕事に時間を喰いつぶされている。

真面目な人間とはいかなる者を指すか。辞書的な意味は脇に置いて、滅私奉公を指すことが多い。要は尽くす人だ。

角幡唯介さんが「家族サービスという言葉は家庭の外でも中でも滅私奉公を美徳とする日本人の考えの現れ」という趣旨のことを書いていた。会社では会社のため、家庭でも家族のため、私利私欲を捨てる修業的な考え方を尊ぶようである。

夕方のニュースで、行楽地帰りのお父様方が渋滞の中で「疲れました」とテレビカメラに答える姿は、「家族のために尽くしています」という感じがする。

 

一般的な「真面目」には意思、考えがないのも特徴だ。

「これやっといて」と言われて「こんなん意味ないでしょ」などと口ごたえする人間は真面目とはみなされない。非効率で面倒なことでも手を抜かずに丁寧にやれば真面目と見られる。

私は「手抜き」を真面目にやる人間なので、このあたり微妙だ。以前、キャッシュフロー計算書に誤りがないか、自動判定するシートを作ったら、手抜きと見られた。

いちいち電卓をたたく方が真面目にみられるらしい。

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一般的な真面目と人生を真面目に生きることが違うと気が付いたのは就職してかなり経ってからのことだ。

 

野田知佑『旅へ 新・放浪記1』

 マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っているのではないか。不マジメならいい加減に妥協してそのあたりの会社に就職している。

 

真面目をテーマに考えるとこの一節がよく思い浮かぶ。

流れに身を任せて大学を卒業し、就職してしまった私などは肩身の狭い。私は決して滅私の人ではないが、適当に妥協しながら生きているのは確かだ。受験も就職もなんとなくやって、希望通りでなくても、なんとなく蓋をして生きてきた。

自分の意思で人生を切り拓いてきた人の言は違う。

 

相方の話。

野田さんが校長を務める「川の学校」の夜、小学五年生の女の子と話をしていた。

「学校の先生ってズルいんだよね。前に言っていたことと違うことを『さっきも言ったでしょ!』って言う」

「まあ学校の先生も人間だからね」

相方は元先生だ。

「野田さんの『日本の川を旅する』を読んだよ」

「ふーん。私も野田さんの本を読んで生きることに真面目だから悩むってわかった」

相方がそう言ったところで、脇で寝ていたような野田さんががばっと起きて言った。

「そうだよ!真面目だから悩むんだよ!」

 

真面目に生きる人は、自分の人生を真面目に考える人なのだ。