クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

コンプライアンスの哲学

2泊3日で社内研修に行ってきた。

事前課題がいくつかあり、小論文とプレゼン資料を作成したのだが、こんな時のテーマは実用性のない抽象的なものと相場は決まっている。小論文のお題は「コンプライアンスの実践」だった。

 

企業はコンプライアンスとやたらに口にするが、どうもこの言葉を聞くたびに小さな反発心の泡が胸中に起きる。「コンプライアンスを重視することがどうして悪いのですか!」と反論されても困る。困るけど何となく反発したくなる。

コンプライアンスとは日本語で法令順守と訳される。法令は守るためにあるのだから順守は当然である。「当然のことをいうな」というのもあるが、ひねくれ者の私には「企業は法令さえ守ればいいのか?」という疑問が浮かんでくる。

今ならパワハラなんて言われる行為だって、過去は当然とばかりにまかり通っていた時代がある。30年前の時代には「ハラスメント」と言えば「セクハラ」くらいしか認識がなく、「同性あいてならハラスメントにはならない」という考えの人だって多かったはずだ。「パワハラ」なんて唐突に出てきた言葉のようだが、今も昔も権力を笠に着た嫌がらせなんて誰も受けたくない。「パワハラは違法だから止めよう」などと言いだすのは行動規範がないからで、他人の決めた法令に違反となればやらない、合法ならやるくらいの考えで行動しているに過ぎない。

私の中で泡のように生じる反発心の源泉は「違法性云々を言う前に自分で考えてみようよ」ということなのだ。特に企業ならその企業が掲げる理念があり、それに沿って事業を続ける必要がある。理念のない企業はただ生きながらえるためだけに利益を追求する餓虎だ。企業に勤めているのなら企業理念に沿った行動かどうかが第一の基準であり、理念が自分の行動規範と合わないならその企業を去らなければらない。

 

「ぼくはコンプライアンスなんて言葉は大嫌いだね」

今は定年退職したOBが吐き捨てるように言った。会社随一の人格者で、安岡正篤を敬愛して自費で買った冊子などを社員に配ったりしていた人だ。この人には今の役員も頭が上がらないという。

その方に言わせれば、「法令を守るなんて当たり前すぎる」と言う。なるほどこれほど高潔な人になると、「法令を守ろう」なんて「信号を守ろう」くらいの幼稚な議論に見えてくるのだろうと当時の私は解釈していた。

しかし、今考えるとその方からすると自己の哲学もなく法令を守ろうと叫ぶことが幼稚に見えたに違いない。自分に確固たる哲学があれば法令を犯そうなんて思わないはずだと。

 

話は若干逸れるが、私の地元は一度は日本一汚い川となった大和川の上流にある。

普段は10cmくらいしか水位がなく、常に泡が立っていた。小学校では「川にゴミを捨ててはいけません」と教えられたが、ゴミ以前に水が汚水と洗剤で壊滅的に淀んでいた。当時からひねくれ者の私は「ポイ捨てしたゴミで水が汚いわけではないだろう。川をきれいにしたいなら水をきれいにすることが先じゃないか」と考えていた。まったく可愛げがない。

ポイ捨ては不法投棄という犯罪である。犯罪だから学校では注意しなくてはならない。では汚水を流すのはどうかというと法律に抵触しない範囲ならOKということなのか。当時の私はそんなことを考えながら「大人の不条理」を感じていたのだ。

1970年代、80年代に法令に違反しない範囲で不要なダムが大量に作られ、日本の山河はめちゃくちゃになった。果たしてどのような理念がそこにあったのだろう。

その後、今更のようにCSRと言う言葉が喧伝され、環境保全も企業の社会的責任と言われるようになった。新しい言葉が出るのは良いが、逆に言うとそいういう言葉ができるまで全く環境問題など考えずに行動していた証拠でもある。

 

こんな文章を書いたわけではないが、400字詰め原稿用紙2枚に「経営理念をよく考えてみよう。そうすればコンプライアンスなんてどうすればいいかわかるはず」という趣旨で小論文を書いた。これは婉曲な課題のテーマに対するアイロニーのつもりだったが、研修の受講者の中では意外性があったのか最も高く評価された。

しかしながら、外部の小論文を評価する人の採点では最も低い得点だった。まあそうだろう。テーマそのものに私は食ってかかっていたのだから。