クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

丸の内に吹く風は

ここのところ私の近辺で障がい者雇用について話題になっている。行政の方針で、一定比率以上の障がい者を雇用する必要があるらしい。今までは罰金(納付金と呼ぶ)だけで済んでいたのが、今後は改善命令が出され、改善が見られない場合は社名を公表するとしている。「悪質」の線引きは最終的に全国平均(従業員に占める障がい者の割合)を上回るかどうかで、要するに「全国平均を上回る企業が増えれば現状より改善するハズ」といういかにも官僚の考えそうなロジックの制度となっている。

企業は採用活動を行う中で、通常健康診断の結果を提出させている。それがどの程度採用結果に反映されているかはわからないものの、健常者を採用しようとしているのは間違いない。行政としてみれば「利益を追求するだけでなく、社会貢献しなさい!」と言っているわけで、今回の社名公表という「オドシ」は、「社会貢献しない企業は事業しちゃいけないんだもんね」ということを示している。

 このやり方の是非は問わないが、どうも釈然としない。何がかというと、社会貢献のために障がい者雇用を行うという点については行政と企業の見解が一致している点である。非常に雑な言い方をすると、行政は「障がい者を雇って社会貢献せい!」と言い、企業は「本当は嫌だけど、社会貢献もしなきゃといけないから障がい者を雇うか」と言っているわけだ。


こういう法改正をビジネスに変える企業が出てきている。

障がい者を集めて事業を行う。これだけなら普通なのだが、そこで働く障がい者は、大企業のアルバイトということにしてしまうのである。大企業は従業員が多いので、雇わなくてはならない障がい者の数はそれに比例して増えるので、なかなか法定の数を満たすことはできない。そこで、この企業は大企業から障がい者を預かって働いてもらうような形態を取る。雇用契約はあくまで依頼した大企業なのだが、働く場はその受託会社。

契約だけ結んでおくことで法律要件を満たすというのはアリなのか?と思う。思うけどそこで正義を振りかざして「これは法律の抜け道を使った行為だ!」と騒ぐ気にもなれない。

私が感じるのはなんとも言えない「違和感」である。


ファーストリテイリング柳井正の本を読んだら障がい者雇用についての項があった。当初は法定雇用者数を満たせずに納付金を払っていたが、とにかく雇ってみることにした。結果、障がい者の働く職場(ユニクロの店舗)では、周囲の従業員たちのコミュニケーションや気遣いが良くなり、職場としての環境が良くなったという。

それはたまたま良かった事例を切り取っただけかもしれないし、問題を抱えてしまった職場が一方であったかもしれない。しかし、社内で物議を醸すであろう障がい者雇用を決断したのはさすがだと思う。それに、確実に障がい者が入ることで職場が良くなったと感じる人がいたのも事実だろう。

私が先ほど書いた「違和感」というのは「障がい者は劣っている」という発想からスタートしていることへの違和感である。法律で雇用を義務付けたり、社名公表をすると発表するのはひとえに「障がい者は劣っているから、無理をしてでも雇いなさい」と言っているのと同じように聞こえる。

ファーストリテイリングの例ではそれが逆転している。「障がい者を雇って良かった」なのだ。「障がい者雇用は社会貢献」と言えば聞こえは良いが、ご慈悲で雇うなどというのは、単に下に見ているだけなのである。


私は書類の上では健常者ということになっている。しかし、持病はあるし、変なところで頑固なくせに、整理整頓が苦手の大雑把人間でもある。こんな文章をつらつら書くように、独りで考え事をするのがわりと好きなやや自閉傾向の人間でもある。単に「障がい」というほどではないが、完全なる「正常」とも言えない。

では何をもって「正常な人」となれるのだろう。そしてこの世の中にその「正常な人」はどれくらいいるのか。

正常な人などいないのかもしれない。単に許容範囲を「個性」ということにして、誰かが許容範囲できないという範囲を「障がい」としているだけのように思える。


どこの学校でも「個性を伸ばそう!」と言う。しかし、実際の学校では弱点強化、どの教科も平均的にできる方を重んじる。

それは日本の一般企業でも同じで、営業もできて、経理も理解し、技術も把握し、部下の管理もできる人間を養成しようとする。その時点で、障がい者は「障害」を得ることになる。

地方で営業をするのに車を運転できないのは不便を通り越して障害となってしまう。人手不足の昨今、1人で客先に行けないセールスは一人前とみなされない。

しかし、当然ながら車の運転と営業活動は決して同義ではない。それでも雇用する側は車を運転できる営業を探そうとする。営業の方法は後から教えてもなんとかなる(と思われている)が、身体的は事情で車の運転ができないのは如何ともしがたいからだ。

その一方で、車が運転できなくとも優れた営業をできる人がいるかもしれない。私には、障がい者と健常者を分けることで、障がい者とされた人たちの他の能力への探索を中止しているように見えるのだ。


伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているか』を読むと、健常者には「見えない」世界が紹介されている。

例えば、「大阪の万博公園にある『太陽の塔』を思い浮かべてみなさい」と言うと、健常者は金色と口をひん曲げたウルトラマンのような顔を持つ方向からの角度から想像してしまう。しかし目の見えない人には正面とか裏という概念がないので、あたかも3D映像のように宙に浮いた状態で「太陽の塔」を想像するそうだ。

どちらが優れているというのではない。ただ、少数派である目の見えない人の「見方」はユニークに聞こえる。

私には昨今の障がい者雇用の制度と企業の対応から、その「ユニーク」を見つけることすら放棄し、障がい者の雇用を単に押し付け合っている姿が見て取れた。


東京丸の内界隈を歩いていてもなかなか障がい者に出会うことはない(少なくとも外見上は)。

あれだけの企業数があれば、数百、数千単位でいなければおかしいのに、みんな機械仕掛けの人形のように朝からシャキシャキとして歩いている。

丸の内の風は「健常者」にしか当たらないのだろうか。