クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

社会不適合者の人生交差点

「いい加減山でも行きたいなあ」と考えるものの梅雨本番になってしまった。

3ヶ月くらい週休1日になっている。収入があるのはいいことだけど、忙し過ぎるのも考えものだ。

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のんびりハイキングがしたい



吉玉サキ『小屋ガールの癒されない日々』を読んだ。就職してもうまくいかず、山小屋スタッフとなった筆者が10年にわたる「小屋ガール」としての日々を回想した本である。

山小屋は下界から隔絶された閉鎖された空間だから、そこには山小屋の社会があり、山小屋のルールがある。「社会不適合者」と自らを卑下していた筆者が山小屋で出会った様々な人たちとその関係がテーマとなっている。

 

 

この社会不適合者とは何だろうか。その一方で社会に適合することとは何だろうと思う。

「世の中に必要ない人はいない!」

と言うのは綺麗事で、企業は応募の中から選別して採用している。

これは企業に限った話ではなく、

「あの人は恋愛対象としてはないよねぇ」

というのも自分にとって必要かどうかという選別の中で起きる。

世の中は不平等なのだ。そして弱者や選ばれにくい人というのはどうしても存在する。何度も何度も選ばれない、うまく仕事をこなせないということが続くとこの社会全体から否定してしまう。

筆者は多くの人にとって非日常である山小屋を日常とすることで、下界の社会から距離を置いた。作中に出てくる山小屋は下界の社会から飛び出したい人々の人生交差点となっているようだ。

 

私が今忙しいのは肯定的に見れば社会に適合し、必要とされているからと考えれる。

ただ、突然エスキモーの社会に行けば近視で獲物は発見できないし、ITベンチャー企業に行けばプログラミングもできず、アイドルオーディションには絶対受からない。「社会」と言ってもどれもあまりに小さく、必要とされる能力や要素は違う。

学校に通い、就職して職場を往復していると、周囲はますます均質化された価値観で塗りつぶされているので、それが「社会」全般と勘違いしてしまう。多様性を謳いながらもみんなその価値観から逸れることを極度に恐れ、社会に「適合」しようとする。

ただ、社会不適合と思い込んでしまうのは所詮、「社会」の見方が小さすぎるのかもしれない。山小屋のような小さなコミュニティでは、互いに持ち寄った「社会」が明確に認識でき、自らの視野狭窄に気づきやすくなるものなのだろう。

 

私も社会不適合者だと感じた暁にはまた山に登ろうと思う。