クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

ぜいたく税

ラジオも何かにつけて「平成最後の」を付けるようになってきた。本屋の新刊にも「平成とは」とか「平成の総括」といった内容が増え、一つの時代が終わることを強調したものが多い。

ただ、平成が終わることで何かが変わるわけではない。普段われわれは今が何時代なのか意識すらしないのだ。そして、次の元号に変わったからといって、今の政権が交代するわけでも、革命が起きるわけでもなく、今までの日々が続くと信じている。

 

当面、今年変わることが決まっているのは元号とともに消費税である。

民主党政権時代に10%への引き上げが表明され、自民党へ政権が戻ってから8%に、そして今年10%に引き上げられる。政権が変わってもゴールは変わらないのだから、全ては財務省が描いた既成路線なのだろう。

今回はただ増税というだけでなく、軽減税率というものが設けられた。食品や新聞は8%に税率が据え置かれる。新聞がなぜという議論はさて置き、食品が据え置かれるのは弱者配慮であろう。消費税が上がって食べられなくなるようでは寝覚めが悪いと思ったのか、消費税導入以来初めての試みとなる。

 

しかし、今回の軽減税率で中途半端なのは持ち帰りの食品は8%、外食は10%としたことだ。つまり、「外食は贅沢だから増税してもよい。持ち帰りの食品はセーフ」。

ちなみに酒や医薬品は10%となる。健康食品は医薬品指定を受けてなければ食品扱いなので8%。医薬品の方が生きる上で重要な気もするのだが。

 

それはさて置き、この税制を見て思い出したのは団鬼六のエッセイ『牛丼屋にて』である。これは大崎善生編『棋士という人生ー傑作将棋アンソロジーー』に所収されていた。

一時離れていた作家業を再開した団鬼六は、これまでのようなホテルのバーではなく、吉野家での晩酌へ頻繁に繰り出すようになる。誰と話すでもなく12時という制限時間まで、チビリチビリ酒を飲みながら、人々の食欲を眺める。

そんなある日、夜の11時過ぎに四十代の親子連れが目の前にいることに気づく。親子は父親と10歳にもならない子ども3人。団は妻に逃げられた男が子どもに食事をさせるため、深夜に子どもを牛丼屋に連れ出していると想像する。そして偶然その日にもらったクッキーに詰め合わせを子どもたちに差し出す。

団鬼六の本は読んだことがないが、さすがは作家だなと思わせる。ただ吉野家という食事を提供するだけのシンプルな場所で人々を眺めながらその人の境遇や将来にまで思いを巡らせている。生活臭さが溢れる場所だからなおさら想像にも妙な生々しさがあった。

 

さて、この牛丼屋のような店も10月からは軽減税率は適用されず、税率は10%となる。ただしテイクアウトは8%。同じものでも、場所を提供するかしないかで税率が変わる。

税制を作った側はいろいろなことに腐心したに違いない。ただ、先のエッセイに出たような親子には「ぜいたく税」が課せられるといった格好だ。

税法は決して万人に公平なものにはできないし、個別の事情に配慮することはできない。税制が年々複雑化するのは絶えず不公平が指摘されるからである。

しかし外食が贅沢で、内食が質素だというのは制度設計者のずいぶんな決め打ちだなと感じる。贅沢な内食だって、質素な外食だってあるのだ。外食に頼らざるを得ない事情だってあるのだ。

 

どうも税制を見ていると、夫婦や家族のあり方に特定の設定があるとしか思えない。夫は日中働き、妻は専業主婦かパートで子どもは2人くらい。

共稼ぎなら収入に余裕があるはずだから、配慮の必要はなし。今1番多いのは単身世帯だが、単身なら支出は多くないだろうから大丈夫。子だくさんなら少子化対策に貢献しているだろうから、軽減税率の恩恵を受けてください。

では、「吉野家の親子」(境遇はあくまで団の想像だが)のように離婚して子どもを引き取った場合はと言うと、離婚は自己責任とされてしまう。

 

軽減税率によって消費税はさらに複雑化する。同じ8%でも増税前の8%と軽減税率の8%では国税地方税の内訳が異なり、区別が必要となる。食品を扱う企業はシステムなどを対応させなくてはならない。

さらに「食べられるもの」か「食べられないもの」かも利用者側の意図とは別に判断していかなくてはならない。

例えば、重曹は食べられるが、食べる以外の用途にも使える。この場合、食べられるなら8%となる。

そもそもこの軽減税率は企業の生産性を落としてまでやるべき価値が果たしてあるのだろうか。いっそのこと、全部10%にした方が煩雑にならずによい気がする。

 

私はこの軽減税率に反対だというより、設計者の価値観を押し付けられる感じがして嫌だ。

従来の夫婦観、家族観、生活観。新しい時代が来るのを拒む価値観。

何より団鬼六が牛丼屋で親子の境遇に巡らせたような想像力が税制設計者の頭にはないことは確実なのだ。