クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

東大寺の鐘

電車の扉の上に付いている小さな画面でノートルダム寺院で火災という記事を見た。

後輩のリッチ君が「日本で言えばどんな感じでしょうね?」と訊くので、「法隆寺が燃えたくらいじゃない」と答えたら、「それは大変だ!」と返ってきた。ただ、「奈良と言えば修学旅行で行った東大寺しか印象がないです」とも言う。

なるほど、全国的には奈良と言えば東大寺奈良公園の鹿である。奈良観光の悲劇は最初にこれらを目にしてしまい、あとの寺社仏閣はどれも同じかそれ以下に見えてしまうことにあることだろう。

 

興福寺近鉄奈良駅から徒歩10分くらい、東大寺はそこからさらに10分くらいの位置にある。

地下にある改札から地上に上がると、商店街の入口に東大寺建立に尽力した行基像の噴水がある。商店街と直角に交わる大通り沿いを東へ少し歩を進めると右手奥に興福寺五重塔が見えてくる。

興福寺奈良時代建立の寺だが、近世に至るまでは奈良を支配する独立勢力であり、一種宗教を超越した影響力を持っていた。興福寺東大寺は京都を支配する政権と何度も敵対し、焼き打ちに遭っているので建造物の多くは建立当時のものでないにしろ相応の重厚な歴史を感じさせてくれる。

興福寺五重塔は黒い。烏城と呼ばれる熊本城のような黒さではないが、黒光りしていて重々しい印象を与える。これに比べると浅草寺のような赤く彩色された塔はフロリダのウォールトディズニーワールドのレプリカのようにいかにも俗っぽく見えてしまう。

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興福寺五重塔


 

 

興福寺が収蔵する仏像は国宝館で展示されている。東京で展示したら連日とんでもない行列となって、真打にたどり着くまでにヘトヘトになるが、奈良で見れば拍子抜けするくらい簡単に見ることができる。

近年、阿修羅像が話題になって小さな仏像ブームが起きたが、どうも阿修羅像ばかりが注目されているような気がする。しかし、奈良時代から鎌倉時代の仏像は古代ギリシャに匹敵するくらいバリエーションに富んでおり、姿や表情はどれも豊かなのだ。

阿修羅像は八部衆の1つで他に7人の仲間がいることはあまり知られてない。阿修羅像が上半身裸の他はみんな中国風の鎧を身にまとっている。みんな怖い顔、厳かな顔をしている中で1人異彩を放つのが迦楼羅像だ。

これは顔がなんと鳥である。鳥!?そう首を横に向けて少しとぼけた雰囲気のあるこの像だけがなぜか顔は鳥で首から下は人なのである。

神話では人が動物に変わったり髪が蛇の怪物(メドゥサのことね)は登場するが、顔だけ鳥になった人など寡聞にして知らない。まさに笑い飯の漫才に出てきた「トリジン」である。

これだけでも奈良に行く価値がある。

 

 国宝館には他にも白鳳時代や運慶・快慶などの慶派の像もあって非常に見ごたえがある。東京なら連日行列ができるようなラインナップでもせいぜい10分くらい並べば見れるのがすばらしい。

興福寺を出てさらに東に進むと通りを隔てて反対側に東大寺への入口がある。このあたりには鹿が群がっていて、「エサをおくれ」と子鹿や頭突きで喧嘩をしている雄鹿が見られる。その喧騒の先にそびえるのが東大寺南大門である。

南大門には運慶・快慶ら慶派の傑作と言える金剛力士像がいる。門の左に吽形が、右側に阿形がいて、来訪者を威圧している。

幼少、私が5、6歳の頃の我が家の恒例行事はお盆に東大寺へ行くことだった。今でもそうだが、お盆の時期は大仏殿にタダで入ることができて、おまけに普段は閉じている大仏の顔の部分の扉が開いている。

ただ、当時は街灯が極めて少なく、少し裏道に入ると懐中電灯が必要なほど暗かった。登山をやっていた父親はもちろんぬかりなく、懐中電灯やナショナルの黄色いヘッドライトを持って行くのが恒例であった。

今は夜間、金剛力士像を下からライトアップされているが、この当時はそのような設備はない。私は手にした懐中電灯で、そろりそろりと下から力士の足元を照らす。

太い脚。波打つ腰巻。大きな手。

顔を照らした時に思わず後ずさりして、後ろにいたおじさんにぶつかった。おじさんは「ははは。驚いたかぁ」と笑った。

目の前では吽形が憤怒の表情を浮かべている。見る者を威圧するような、それでいてその顔に感情的な「怒り」はない。こちらの心の弱さを衝くような、畏れを感じさせる姿である。

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南大門 金剛力士


 

 

南大門を出るとすぐに大仏のお顔が見える。見えるのは正月とお盆限定で、この時は拝観料も無料なので、1回を除いて私はこのどちらかの時期しか行ったことがない。

南大門から大仏殿までは100mくらいの石畳で中ほどに国宝の八角燈籠だけがある。この贅沢な作りが日本一の寺たる所以である。

鎌倉の建長寺に行った時は上品な作りだと思ったものの、箱庭的なコンパクトさを感じたものだった。この種、中国風とも言えるこの広大さは全国でも東大寺にしかない。

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国宝 八角燈篭


 

 

この広大な石畳を抜けると真打ち大仏様がいる。

升田幸三の著書に、子どもと運転手がこんな問答をしたという話が載っている。

運転手が平安神宮の鳥居は奈良の大仏より大きいと説明した。子どもは「奈良の大仏さんの大きいもん!」と言って譲らない。運転手が「なんで?」と訊くと子どもは「奈良の大仏さんが立ち上がったら鳥居より大きい」と答えたという。

なるほど東大寺の大仏はとてつもなく大きく感じる。まず体格が立派である。これが立てばどれほど大きいのかと想像するのはこの子どもだけでなく私もそうだった。

大きさを感じる理由はそれだけではない。あまり注目されないが、大仏殿には虚空蔵菩薩如意輪観音菩薩が両脇を固めている。さらに後ろには広目天多聞天が控えていて、さらに大仏の光背にも金色の仏様がいて、意外と大仏殿はメインの廬舎那仏(大仏のことね)だけではないのだ。

大きさを感じるのは相対的なものだから、それより小さいものが周囲にあると余計に大きく感じる。これを目にした1300年前の人々の感想を聞いてみたい。

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ご存知、東大寺盧舎那仏

 

思いがけず長文になってしまった。しかも観光ガイドにも、歴史的な見地もあまりない役に立たない駄文にもかかわらず。

最後は我が家の定番ルートである大仏殿からの二月堂で終わりにしたい。

大仏殿を出て、南大門の手前まで戻って左(東)へ折れると出口である。出口を出てさらに東へ進むと手向山神社がある。手向山神社は菅原道真が詠んだ「このたひは幣もとりあへす手向山」という歌にも出てくる。その本殿の手前で左に抜けると二月堂の舞台が見える。

二月堂は「お水取り」で有名である。お水取りは正式には修二会という儀式であり、巨大な松明を持って二月堂の舞台を走るシーンが有名だ。

「お水取り」の時期以外は人が殺到するということはない。そしてここは奈良市内を眺めるには随一の展望台である。奈良市内には京都のような10階を超えるようなタワーや駅ビルはないので、遠くの山まで見渡すことができる。

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二月堂からの眺め

 

関西に住んでいると「寺=興福寺」、「大仏=東大寺」になってくる。

「いや、寺と言えば四天王寺や!」と言う大阪府民や「清水さんか平等院やろ」と主張する京都府民もいるだろう。

しかし、多くの寺が氏族や個人によって建てられたものであるのに対し、東大寺は全国にあった国分寺の総本山、いわば国家プロジェクトによって建立されたものである。興福寺は元々藤原氏の氏寺ではあるものの、内部の建物を聖武天皇が建立したりと、これも東大寺と同様となっている。

京都の寺はほとんど(というかほぼ全部)が私寺である。平等院藤原頼通鹿苑寺足利義満という具合だ。延暦寺や東寺、本願寺なども著名なのだが、これらは修行の場や宗派の総本山で、「私立」に違いない。

京都遷都以降の「私立」の寺はそれぞれ発案者の趣味嗜好を反映した独自の色を出している。ただ、それは東大寺興福寺をベースに皇族や貴族が模倣、脚色したもののように私には思える。

もちろん十把一絡げに論じるのは危険だが、中世以降の寺は多かれ少なかれ何かしらの影響を受けているだろう。

 

まだ小学生のころ2つ下の妹は除夜の鐘は東大寺の鐘が響いていると信じていた。東大寺から全国に鐘の音が響き渡っていると。

当時は家族でその荒唐無稽な想像を笑った。しかし、日本を代表するこの寺の音が今も全国に響き渡っているというのは、ある意味で真理だったかもしれない。