最近、大前研一さんの本と立て続けに読んだ。大前さんの本は経営・経済の話だけかと思いきや、政治や果ては憲法改正議論まで広がっていて、今更ながら見識の広さに驚く。何冊か読んだが、読んで感心しているだけでは怒られてしまう。「ちょっとは自分で考えてみろ」と。
そこで、新しいカテゴリーとして「経済」を作ってみた。何しろ雑文だらけのブログで、テーマは不在。この「経済」カテゴリーもどのくらい書き続けられるか不明ではあるが、ちょこっと考えたことを綴ってみようと思う。
ちなみに、私の大学時代の専攻は歴史である。まったくどうしようもない素人だ。
さて、大多数の人は毎日金銭を手にする。山奥で完全自給自足という人は日本においては現実的には難しい。現金を手にしなくても、電気を使えば電気代が、水道を使えば水道代が日々発生していて、いつの間にか口座から引き落とされたりしている。
当然、金銭を使うためには稼がなくてはならない。つまり利益が必要だ。しかし、「利益」とはそもそも何なのだろう。「売上と売上原価の差し引きが売上総利益です」というのは会計の定義であって説明ではない。
この問いに答えられる人はどのくらいいるだろう。
企業では当然のように利益を上げることが重視されるが、利益とは何かがわからなければ、利益をなぜ上げなくてはならないかもわからないし、どうすれば利益が上がるかもわからないではないか。
たまたま図書館で開いた『グロービス MBAファイナンス』という本のコラムに面白い記事が載っていた。著者が新入社員時代に同僚の女子職員が課長に「どうしてそんなに利益を上げないといけないのですか」と訊いたという。訊かれた課長は真摯にその問いに答えようとしたものの窮してしまい、正直に説明できないと詫びたという。
著者としての説明は以下の通りだ。少し引用してみる。
「経済学的に言うと、すべての経済的な問題は財(ヒト、モノ、カネ)が希少であるということから生じる。(中略)財が希少である以上、できる限り効率的な方法で利用しなければならないはずだ。そして、市場メカニズムが機能している環境において、効率性を実現しているというシグナルになるのが儲けなのである」
なるほど納得である。
越前で水揚げされた鯖が1000匹あったとする。ただし、現地で消費できるのは800匹。鯖は特に足が早いので、早く食べないと腐ってしまう。そこで、ある足の速い(こっちは本当の意味で歩くの速いってことね)行商人がこれを内陸の京都に持っていけば売れるに違いないと考える。行商人は港で鯖が水揚げされるや否や漁師から鯖を受け取り、塩を振って藁に挟んで背負子に乗せると南へ向かった。そして昼夜、山間部を歩き通して京都の市街に着き、市を広げると、海の魚をなかなか見ない京都人が殺到し、瞬く間に高値で売れてしまった。
この行商人が得た利益は何だったのだろう。昼夜を歩き通した対価?京都で鯖は高く売れると読んだ先見?
確かにそれもあるが、先の引用から考えると、この行商人は越前で下手をすれば腐ってしまうかもしれない鯖を京都で有効に消費させることに成功している。儲けは歩いたことの報酬ではなく、鯖を効率的に活用したことにある。
そう考えるとなかなか面白い。教育はヒトという財を効率的に活用するための事業であり、貸金はカネを効率的に活用することに対して利息を取っていることになる。
それでは、高度経済成長期以降も全国にたくさん作られたダムを造ることはどうなるだろう。
ダムを造るには人手が必要なので、現地に雇用が生まれ、ヒトが活用される。そして建設資材が必要なので、大量のモノが持ち込まれる。ついでに公費としてカネが現地に落ちる。そしてダムが完成する。ダムができた後は...
ないのである。もはや重工業は大量の水を必要としないし、発電と言っても建設費用をペイできるほどのものではない。作ったらおしまいの完全な袋小路に入った事業、しかもそれはすべて企業や個人の「儲け」の上前をはねた税金によってまかなわれている。
これは市民サービスとして作られた多くの箱ものも同じである。
この袋小路に浪費されていないかを市民、国民は監視しなくてはならないのだ。
経済というなんだか難しい話だ。私もその先入観があったので、経済学部や商学部を志望することはなかった。
しかし、ザックリ考えると社会を効率的に循環させるのが経済であり、私たちは効率化した人にカネを払って生活していると考えればわかりやすい。
はたして私は社会をどのくらい効率化しているのだろう?