クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

'90アメリカ滞在記・7歳の見た異国ー出発

「昔、少しだけアメリカにいたんだ」

何かの話題にそう話すと、「へー!」と感心される。

「たった10か月だけどね」

「英語しゃべれるの?」

「当時7歳とかだから戻ってきたら全然」

これで少し英語がしゃべれたらカッコがつくのだが、英語は嫌いではない程度でさほどうまくもないし、なんだか帰国子女の面目が立たない。そもそもたった10か月では帰国子女とも言えない。

ただ、この期間は私にとってはもっとも記憶に残っている時代でもある。そのうち記憶がなくなってしまう前に貴重な体験(私にとってだが)を書いておこうと思う。

 

我が家がアメリカに行くことになったのは父親の仕事のためである。仕事は製薬会社で、大学との共同研究とやらのためだった。後に知ることになる情報によると、父は会社の公募でアメリカ行きを名乗り出たらしい。ただ、期間は1年限定で、共同研究と言っても何かの成果を求められているのではなく、単にアメリカ研修といった意味合いのものだったらしい。

90年の1月に父が先にアメリカに発ち、4月に残る家族、母と私と妹が追いかけるということになった。

向かうのはアメリカ・ケンタッキー州である。まずは伊丹から出たジャンボ機に乗ってシカゴに向かう。私にとって飛行機に乗ることが初体験である。母方の祖父たちが見送りに来た気もするが、そんなこともロクに覚えていないくらい興奮していた。

 

飛行機は真ん中の席で、どでかいスクリーンしか見えない。飛行機は離陸に向けて走り、機体を上に向かって傾けるが、外が見えないのでなんとも動いている実感がない。何ともつまらない乗り物だと感じた。

そんな機内の楽しみは食事くらいしかない。機内食を訊きに来たキャビンアテンダントに、肉か魚かと訊かれた我が兄弟は、その言葉に対してやや食い気味に「肉!」と答えて母親に睨まれたりした。

夕食が終わるとやることもない。前のスクリーンでは洋画がやっていたが、英語なのでよくわからない。というかまだ7歳なので日本語でもよくわからない。何時間も缶詰でいなくてはならない飛行機は理不尽な乗り物だと感じつつ私は太平洋を運ばれていった。

 

飛行機を降りる直前になると、母親が妙にピリピリし始めた。アナウンスで入国に関する注意が告げられているようだったが、それらはすべて英語なのだ。妹とふざけていると「静かに!」と鬼の形相で叱られる。その時、母親が英語を知っていることに妙に感心したりした。

飛行機から下りると入国手続きがある。行列ができていて、こちらでも母親はピリピリしている。私たちにはなにがピリピリなのかよくわからない。ただ、アメリカ紙幣に描かれている天秤のイラストをよく見ると、髭のオジサンみたいだなぁなどというどうでもよいことを考えていた。

空港には父親が来ていて、その日は空港近くのホテルに泊まった。朝に着いたつもりだったのに、外は夕方である。わけがわからない。

その日はルームサービスで食事をし、もう「夜だから寝なさい」と、詐欺のようなことを言われたが、いくらでも寝ることのできる私は結局数時間起きていただけなのに寝ることができた。

 

ケンタッキーへはシカゴから再び国内線飛行機に乗った。今度はプロペラ機だったと思う。

飛行場には父親が車を止めていて新居には車で向かった。日本では駐車場付きのマイホームを建てたものの、マイカーはなかった。そして私は父親が車を運転できることも知らなかった。そして父親を少し見直すのと同時に、広い駐車場を埋め尽くす車を見ては「アメリカとは豊かな国だなぁ」と思った。

車はツードアのスポーツカーで、後部座席に乗るためには運転席と助手席のシートを前に倒して、隙間から身体を入れなくてはならないというややこしいものだった。父親の話では、「これなら子どもが勝手にドアを開けないし、外から子どもをさらわれることもない」というわけで何とも怖い話である。

 

車は空港から何もない林を抜け、芝の広がる丘を横切る。

「見てみぃ。馬や」

父親が運転しながら言う。横を見ると丘の上で馬が立髪をなびかせている。ケンタッキーは競走馬で有名で、郊外のあちこちに牧場があり、広い芝生の上を馬たちがのびのび走り回ってる。

「ほら!church や」

church が何かはわからないが、指し示した先にはレンガ造りの巨大な三角屋根の建物がある。その他の家もすべて巨大だ。

とにかく、アメリカはでっかいのだ。

車はさらに走り、住宅街らしきエリアに入る。道を左に折れて少し行くと、茶色いメゾネットタイプのアパートの前に止まった。