クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

命を懸けること

台風通過前の土曜日、山へ走りに行った。

奥多摩駅から愛宕山を経由して鋸尾根を登る。鋸尾根にはちょっとした岩場があるものの難しいところはない。鋸山から大岳山、御岳山を経て日の出山に登り、金毘羅尾根から武蔵五日市駅に下りた。トータル5時間半。

木陰には涼しい空気が溜まっているものの、まだまだ暑い。

家に帰って洗濯物を干しているとNHKの受信料について確認の人が来た。

「テレビ1台でお間違いないでしょうか?」

と訊くので

「いえ受信機がないので申し込んでいないという次第です」

と答えた。

謎のタッチ式端末を持ったその男性はさらに「携帯iPhoneですか?」と訊く。「ええ」と答えると、「それでは私の方で受信機なしと登録しておきます」と答えて一礼して去って行った。

それにしても払っていない世帯をすべて回って「テレビありますか?」と訊いて回るのは大変だろう。前にも書いたけど、法律で受信料の支払いが義務付けられているのならテレビを買う時に受信料契約を義務付ければいいのに。

 

それはさておき、テレビなし歴10年くらいになるが少しは見たい番組がある。1つは「情熱大陸」や「クレイジージャーニー」などの人物評伝系の番組。もう1つは地上波でやる映画。

映画なら映画館で見ればよいではないかと言われそうだ。ただ、そこまでしてみる気もない。映画は時代を経るごとに映像に迫力が増していくのだから今こそ映画館で見るべきなのだろうが、人気映画と呼ばれるものほどシナリオがチープに感じてしまう。

なぜチープに感じるのか。それは登場人物がむやみに「命を懸けた」行動に出るからだ。そりゃ死んだらおしまいなわけなのだが、わざわざ事を深刻にするために「死」をぶら下げるのはいかがなものかと思う。

 

かなり前になるが、映画版『岳』を見に行ったことがある。先輩の家で漫画を読んで、まあまあ面白かったので行ってみた。映画版ではどんな感じで仕上げて来るだろうと楽しみに出かけた。

主演が小栗旬長澤まさみ。美男美女でちょっとイメージが違う。特に主人公の島崎三歩は漫画では四角い顔のがっちり系で、若いころの山口智充という感じが相当だ。それはいい。

問題は内容なのだと言っても、内容もなかなか酷かった。冒頭でアイゼンに雪団子ができて重いからと、アイゼンを外して登った登山者も謎ならば(雪団子なんて大した重さではない。重く感じるのは単に体力がないから)、滑落して巨大なクレバスに嵌るのも謎である(氷河のない日本で巨大なクレバスはできない)。

そんなツッコミを始めるとキリのない映画なのであるが、気になるのは登場人物がむやみに「命がけ」を引き起こすことだ。暴風雪の中で登山者救助に出かける。挙句はヘリから飛び降りる。使命感に駆られるのはいいけど、二重遭難間違いなしの行動を平気で始める。

話がめちゃくちゃなのはまあ置くとして(本当は置きたくないが)、これが何を示しているか。それは「命を懸けた」行為は感動を呼びやすい、もしくは感動を呼ぶには命を懸けるしかないということだ。


映画版『岳』は、同じく漫画から映画化した『海猿』がヒットしたので、「二匹目の泥鰌」を狙った雰囲気がぷんぷんした。その『海猿』も命を懸けた救助がテーマになっている。さらに遡って「アルマゲドン」も命を懸けて、というか結果的に自分の命を代償に地球を救うという話になっている。

どうやら宇宙、海、山という非日常の中で感動を与えるには命を懸けることくらいしかないらしい。それとともにこれらの映画は、われわれが日常においていかに「死」から切り離されているかを示唆している。宇宙や海、山が非日常なら、死も同じくらい非日常となっているのだ。


しかし、実際には山のいたるところに「死」は転がっている。これは別にここで誰かが死んだというわけではなく、ここから落ちたら死ぬとか、装備不十分で迷ったら死ぬこともあるということだ。

普通の登山道でも数十センチ横には死がある。木漏れ日に見とれながら次の瞬間に崖から落ちることもあり得る。極端な話が、山や海にいれば死ぬ可能性はゼロにならない。

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しかし、これは実のところ街でも変わらない。車にはねられることも、何かの事件に巻き込まれることもあり得る。生きている限り死ぬ可能性はゼロにならない。

映画では陳腐とも思えるほど「命を懸ける」という行為がテーマに上がる。それはわれわれが命を、死を普段意識していないことには他ならない。