クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

時間どろぼう

忙しくてなかなか山に行けない。

山に行けないと精神的に問題が出るばかりでなく、肉体的にも大きな問題が生じる。早い話が、身体や感性が鈍って危険な目に遭いやすくなるわけで、先日も八ヶ岳で軽く冬山を体験するつもりが、指先を凍傷にしてしまった。このまま仕事に時間を取られると、職場より先に山で危地に追い込まれないとも限らない。その前に山を止めろという意見もあろうけど。

それにしてもなぜこんなに時間がないのだろう。

 

「時間がない。時間がない」と呟いていて思い出すのが、ミヒャエル・エンデの『モモ』である。あまりに有名な作品なのと、ミヒャエル・エンデに関する蘊蓄を私は持ち合わせていないので、ここでは深く触れない。ただ、時間を「時間どろぼう」が葉巻にするのに盗んでいるなら非常にわかりやすい。時間どろぼうの方でも甕に詰めて床下にしまったり、定期預金にしたりせずに煙にしてしまったのだから、みんな時間が不足していくわけだ。現実は自分の時間は自分のもののはずなのにいつのまにかふわふわ消えているからタチが悪い。

一体どこに時間どろぼうがいるのか。

 

時間を奪う人間には2種類いる。

一つは文字通り他人の時間を取る人間。落語「化けのの使い」に登場するご隠居なんかがその類だ。知らない人のために紹介すると、江戸の町に当時の職業斡旋所、口入屋で悪評の立つご隠居がいた。とにかく人使いが荒く、雇った使用人は使わないと損とばかりに、掃除・選択・炊事・使いにと使う。使用人が次々に辞める中で、ある使用人が粘り強く仕えるが、その使用人も主が化け物の出るという噂のある屋敷に引っ越すという話を聞いて辞めてしまう。話は化け物とご隠居に移り、下げへと向かう。

この中で、粘り強い使用人・権助がご隠居に訴える場面がある。

「なぁ、旦那様。おら、ずーっと思ってただ。あんたは人使いが荒いんではなく、無駄が多いんだ。

『おーい、権助。大根買って来い』って言って、帰ったら

『おーい、権助。味噌買って来い』っ言う。

『おーい、権助。大根と味噌買って来い』と一度で言えばいいだ」

人使いが荒いより無駄の多い指示の方が精神的に応えるという例。他人の時間をいたずらに奪ってすましているというのは古今を問わず嫌われるだけでなく大いなる害悪となる。

 

一方で、時間をむやみに差し出してしまう人がいる。

他人の時間を取る人間はわかりやすく嫌われるが、差し戻す人間はむしろ重宝がられてしまう。なにしろ「これをやれ!」と指示すれば、時間を気にすることなくやり遂げてしまうのだから、とにかく便利だ。先の権助のようなタイプである。

時間を差し出している当人はそれでもよい。人のために自分の人生の貴重な時間を差し出すことを生きがいにしているのだから。問題はその価値観を周囲に蔓延させることである。特に「俺が若手だったころは忙しくなると徹夜が当たり前だった」とか「近頃の若いもんは」と言う輩がいると危険だ。「俺も時間を差し出したのだから、お前も差し出せ」となる。

他人に強制しなくても、早朝深夜まで働く人が周囲にいると、無制限に時間を投入する風土が生まれてしまう。案外、他人の時間を取る人間より質が悪いかもしれない。

 

「山で凍傷になりました」と会社で報告すると「また怪我するのになんで山なんか行くか」という顔をされた。先月もマラソンで爪がはがれて足を引きずっていたばかりだ。別に言わなくてよさそうなものだが、ここ2週間キーボードを打つのに支障をきたしているので、言わざるを得なかったのだ。

なんで行くかと訊かれると、答えはいくつもある。ただ、一つの答えとしては「誰に頼まれたわけでもないから」となる。つまり、時間を盗まれないで過ごせるから独りで山に入るのである。