クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

地頭と生きる力

テレビなしの生活が10年以上続いていると、いわゆる流行語がわからなくなる。

「今年の新入社員って顔面偏差値高くないですか~」

などと広報担当の女の子に言われて少しキョトンとした。「顔面偏差値」という言葉は知らなかったが、意味は推測できる。しかしそんな言葉なくてもいいようなもんだと考えるのは歳なのだろうか。

新規な言葉を作って楽しむのは頭の若い人の特権かもしれない。

 

これは最近でもないが、「地頭力」なる言葉があった。最初は「じとう」と呼んでしまい、鎌倉時代の守護・地頭と関係があるのかと思ったらその本には「じあたま」とルビが振ってあった。「地頭を鍛える」と聞いた時の語感から察せられるのは「頭突きが強そう」という幼稚なイメージで、パキケファロサウルスじゃあるまいしそんなことを指しているわけがない。

ネットで調べると、「知識の多寡ではなく、論理的思考能力やコミュニケーション能力などをいう」とあった。おそらく従来の丸暗記、詰め込み学習への批判からそのような言葉が生まれたのであろう。文部科学省も「生きる力」という言葉を使って、新学習指導要領が詰め込み学習ではないことをPRしている。

しかし「地頭」、「生きる力」って何だろうか。

 

「 地頭だ」、「生きる力だ」と言っても抽象的な概念でわかりにくい。

文科省のポスターにはフィギュアスケート選手の高橋大輔浅田真央、女優の紺野美沙子が「生きる力」なんていうサインを入れているが、彼らは生きる力において抜きんでているかといえばわからない。私だって自分が登山をするからといって「登山で強い人間には生きる力がある」なんて言うのは、我田引水論法だ。山に登るのも金があってこその娯楽であり、街で金がなければ山にも行けない。フィギュアスケートなんかはもっと金がかかるので、本人以上に親の経済力が必要となるが、別に生きる力と何の関係もない。要するにこれは文科省のイメージ戦略であって、宅配ピザのやや大げさな広告みたいなものである。

服部文祥さんは「サバイバル登山家」を標榜しているが、本人が認める通りそれはただの宣伝用のキャッチコピーだ。服部さんは山で生きているわけではなく、雑誌編集者や文筆を生業にして生計を立てている。みんな何かしらの手段を使って生計を立てているわけで、それが正社員だろうが、公務員だろうが、アルバイトだろうが、生きているには違いないのだ。じゃあ何が「生きる力」なのだと文科省に問いたいところである。

 

私の結論は面白い人生を歩めるかどうかが「生きる力」なんだと思う。本人が面白いと思えるかどうか。別に他人がどうこう言う話ではない。

私の友人に、30代後半になってアルパインライミングに目覚めた人がいる。あるルートを登り、トップアウトする最後の岩を掴んだ時に、「これが私のしたかったことだ!」と確信したらしい。その後、彼女は転職し、ゴリゴリの登攀クラブに所属し、ヨーロッパアルプスを目指してトレーニングを積んでいた。

私の友人にはそういう人が意外と多く、20代はやや迷走した後にクライミングや山登りに目覚め、人生の最優先目標に据えた人が何人がいる。「この世の中は信じるに足る」*1と信じるだけでも「生きる力」を手に入れられている彼女たち(なぜか女性の友人の方がこういうケースが多い)を見ていると、文科省の提言はやけに空疎なお題目のようにしか感じられない。

 

山に登る人は「山屋に悪い人はいない」と言う。同じようにマラソンをやる人は「ランナーに悪い人はいない」と言う。海に行く人、川に行く人も同じなんだろう。

要はどこかに行く人はこの世界のどこかに興味があって、何かを知りたくて、何かを楽しみたくて行くのであって、この世に絶望している人はどこにも行かない。地頭やら生きる力を標榜するのは教育者側の勝手だが、「この世界は知ると楽しいことがいっぱいあるよ」、「この世界は考えることがたくさんあるよ」と伝えるのが一番大切なのではないだろうか。それが明日を生きる最大の糧になるのだから。

 

そういや「 地頭が大切、偏差値教育反対」としている一方で「顔面偏差値」なんていう言葉が流行しているんだっけ?

 みんなわかりやすい人生の答えを言葉の上で探したいだけなのだ。

*1:この言葉は服部文祥さんから借用