ここのところ帰宅が夜の11時を過ぎる。この時間になるとのんびり食事をとる余裕もなくて、牛乳でも飲んでバタリと寝てしまい、あまり身体よくない。運動もほとんどしていないので、何だか家畜になったような心地がする。
いやこれが本当の「社畜」というやつか。
映画「いのちの食べ方」を見た。
アメリカの大規模農場を撮影したドキュメンタリー映画で、家畜や農作物が生まれ育ち、屠畜または収穫されるまでをひたすら映している。どこも清潔感漂う農場で、まるで工業製品のように動植物が流れていく。
中でも圧巻は豚の解体で、チェーンコンベアで脚から吊るして次々に流れていく。そして、刃物を装着した機械が豚の腹を縦一文字に裂くと、腸がボロリと出てくる。
既に血抜きされているのか、血生臭いシーンは一切なく、白い豚はまるで陶器のようで、1つ1つの個体にもほとんど差がない。同じくらいの飼料を食べ、同じ時期に出荷されると、同じような姿になるのだろうか。とても生きていたとは思えないくらい無個性である。
その他にも自動で魚の腸を取る機械やら電気ショックで牛を殺すや否や機械がゴロンと牛を反転させて、ウィンチで吊るしたりと、何もかもが整然と進んでいた。
映画は、全編台詞なしで、ひたすら作業風景が撮られていて、時折従業員の食事風景を挟んでいる。画像はすべて整然とした美しさをもっており、食品工場も農場もシンメトリーに撮られている。屠畜の生臭さもそこにはない。
ただ、この映画で最も印象的に見えるのが従業員の食事風景だ。これらの食品を生産している彼ら彼女らももちろん食物を食べるわけで、そこには自らが生産しているようなものもあるだろう。それらを極めて無表情に、時にテレビでも見ながら食している。
この意図的に挿入されたシーンを見ていると、生きるために食べていて、食べるために働いているんだなあと思う。その一方で、食物にされる生命は食べられるために生きている。
そのことを残酷だと言うつもりはない。両者は対になっているようで、どこか似ているような気がする。
米原万里のエッセイ集『旅行者の朝食』で、食べることを何より楽しみにしている筆者は「生きるために食べる人と食べるために生きる人がいる」と書いていた。
米原さんは晩年の体型が物語るように自他共に認める後者である。これをただの食道楽と割り切ってしまえばそれまでだが、社畜状態の私には何だか羨ましい。
今私は生きるために淡々と食べているだけなのだ。