クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

登山で身につける自己肯定的思考

相方の発する言葉が時折、私を苛立たせることがある。

「あー何やってんだか、私」

大抵、何かしらのミス、食器を落としたとか、水をぶちまけたとか、大したことのない手違いをやった時に放つ。

「男なら優しい言葉をかけてやらんかい!」

と言われそうなんだが、なんだかその言葉を聞くとこちらも嫌んなって何も言えないのである。


まだ未熟だった大学時代最後の冬、モンベルの80Lバックパックを担いで、冬の四国・石鎚山に行った。

頂上から少し下の避難小屋を過ぎると雪が降り積もり階段の段差は固い氷が詰まっていて、足がかからない。バックパックは重くて身体の自由が利かない。

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その時は途中で一旦諦め、避難小屋まで戻った。そして軽アイゼンを装着し、バックパックは避難小屋の脇に投げて頂上まで登った。

軽アイゼンを持参しながら装着してなかったのも、重すぎるバックパックも、体力のなさも全て未熟。遭難事故でも起こせばどんな非難を浴びることやら。

おそらく街中でこんなミス(街中で遭難はしないだろうけど)をして他人に見られていたら、私は自分が嫌になっただろう。


登山をやり始めてから私はあまり自己嫌悪にならなくなった。

自己嫌悪に陥らない方法はある。自己を達観することだ。

「所詮オレはこんなもん」

という諦めである。

自己嫌悪に陥りやすい人は「こうあらねば」、「こうなるべき」という理想を常に持っているような気がする。それはそれで悪いことではない。理想に近づくために努力するのだから。

しかし、高すぎる理想や理想に近づけない自分に気がつくと、不意に理想は重石となり、精神を蝕むことになる。


登山をやらない人に

「登山に大切なものは?」

と聞かれることがある。私は即座に答える。

「体力です」

身も蓋もないとはこのことで、相手は黙ってしまう。

私が登山をしている時に自己嫌悪にならないのは、今の自分の力と向き合うことができるからかなと思ったりする。

体力がないのも、判断力がないのも受け入れた上で進むしかない。特に体力を客観視するのは進退の判断で重要になる。何しろ歩かなきゃ帰れないのだ。

時々、過去の自分より体力が落ちたと嘆くことはあっても詮なきことなので、自己嫌悪にはならない。

他人と自分を比較しなければ、自己嫌悪に陥る基準そのものがなくなるのだ。


自己肯定感を身につける方法。

それはただ今の自分だけを見つめることだと私は思っている。