ずいぶん以前、何かの研修で「もし後輩に『なぜ働くのですか?』と訊かれたらどう答える?」というお題があった。私が「自分への挑戦」などというスポーツでもするかのような答えを発する一方で、大半の人は「誰かのために」と答えていた。この時、なるほど「誰かのために」ねと感心した記憶がある。
正直な話、誰かのために働くなんていう殊勝なことは考えたことがない。この市場主義の世界では誰かの役に立たないと金にならないから誰かのためになる働き方をするだけであって、結局は自分のために働くのだという意識が常にある。
我ながら身勝手な生き方だと思う。
ところが、先日相方と話していたら「誰かのためにならもっと頑張れる」と言われてハッとした。自分の利己主義を悔いたというわけではなく、誰かのためになら頑張れる人と自分のために頑張れる人が分かれるということにようやく気付いたのだ。
しかし、私には誰かのためにという考えで生き続けることは難しい。「誰か」が私を否定したら、私の生きる価値がなくなる気がするからだ。
一方で、「誰かのために」と言う人は自分で自分を肯定することが苦手なのかもしれない。
野田知佑さんは、アラスカの荒野では"On my own"(自分のため)に生きることになると書いていた。「誰かのために」と「自分のために」の間を揺れ動いている時でも、独り大自然に入れば自分のことだけを考えざるを得ない。
私が登山や何やに精を出すのは、「自分のために」の考え方をリセットするためのような気がする。