クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

生傷の絶えない生活をしよう

先日の妙義山登山では落ち葉が凄まじかった。ところどころで足首まで潜り、そして足元が崩れる。

私は5回以上、相方も同じくらいの回数滑って転んだ。

結果、私の手のひらには2ヵ所の傷、むこうずねにも木の根で擦れた痕が残った。

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転びまくった下り

山に行くと何かしらの怪我をする。

遭難事故になるような大怪我はなくても小さいものは必ずある。あまりに多すぎて覚えていないのだが、先月の谷川岳では滑って太ももと尻の間を打ち、大きな青痣を作った。ついでに岩でむこうずねも打っている。

5年ほど前、黒部の水平歩道に行ったときは、トンネルの中で思い切り頭をぶつけて瘤を作った。暗い手掘りトンネルで、ヘッドライトで照らしながら歩くのだが、足元は水びたし、天井は低い。頭上注意はわかっているので、小腰をかがめて歩く。しかし、最後の最後で油断してガチン。それ以来、トンネルをくぐる時はヘルメットをかぶるようになった。

骨折や靭帯断裂をやると致命的だが、擦り傷や打ち身は避けられないし、致命傷にならないよう、そのくらいの傷にとどめるのが力量である。こけて墜落したら遭難だが、打ち身くらいで済んだら笑い話なのだ。

 

私の場合、山でなくても怪我をする。

去年は足の使い過ぎか膝が痛かった。その前はボルダリングでは薬指の靭帯を痛めて快癒に半年以上かかったこともある。マラソンで転倒した時は顔を十針縫ったし、ジョギングで転んで肘を擦りむいた時は、いろいろな人に理由を聞かれた。

怪我だけは子ども以上にやっている。

東京に来て思うのは日常生活で怪我をしない。それは世界一安全な街であることの証明でもあるが、身体的な痛みを日常の中で感じないことを示している。

最近は冷たい水でアカギレになったなんて話はついぞ聞かない。バリアフリーが普及して転ぶリスクも減った。刃物を扱うのは料理くらい、いや料理すらしない人も多い。街中で喧嘩なんかもあまり見かけないし、怪我の話題は野球やサッカー選手、相撲取り、格闘家などのアスリートに限られる。

現代人の身体性の欠如という話はずいぶん前からあるが、「痛み」というのは最も身体性を感じる現象である。それを極力排除したのが都会だといえるものの、小さな怪我の経験が豊富な私にはそれでいいのかという疑問が残る。

 

人間死ぬときに痛みを感じない人はあまりいない(本当の即死というものを除いて)。痛みがあるから生きているのであり、感じなければ死んでいるのである。では生きていて痛みを感じないのは死んでいるのと同じではないだろうか。

大げさかもしれない。ただ、治る怪我ならやってもいいと思う。それが生きている証拠なのだから。