クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

登山とコロナの死生観

今年は「死」ついて考える1年になった。

 

大げさな話ではない。新型コロナの狂騒が相まって死生観について考える年になったので少し死と生についてつらつら書いてみたい。

 

今年は2月くらいからコロナ騒動が始まった。

自粛・自粛・自粛のムードは、感染症対策というより、こんな時にはしゃぐのは不謹慎。昭和天皇崩御東日本大震災の頃の報道を思わせる。

一方で報道に対して実感を伴わないのも事実で、身近に感染したとか亡くなったという人も聞かない。ただただ自粛のみである。

今回の騒動では先が見えないところが過去と違うところである。戦う実態も見えなければ、いつまで戦えばいいかもわからない。戦った先に明るい未来が待っているとも限らない。

「呑む、打つ」くらいしか愉しみがないと大変なことになる。

 

さて、2月から6月にかけては仕事が忙しすぎてどこにも行ってなかったが、8月には山を再開するようになった。

今年は危険な登山はしていないものの、8月初めの奥多摩では溺れた。

ロープワークに失敗して溺死しそうになったのだ。ロープがビレイデバイスにひっかかり、滝の下から脱出できず、そのままいけば低体温症か疲労凍死。その時私は滝の飛沫を受けながら、

「これで死んだらシャレにならんなぁ」

と思った。

同時に今まさに病の床に就いている相方の祖母が頭をよぎり

「これでおばあちゃんを抜いて行ったらシャレにならんなぁ」

とも思った。

滝から遠ざかろうとするとロープがますますデバイスに食い込み、足も付かない。必死で滝に近寄ってみたら足の立つところがあって、荒く息をしながらロープを外すことができた。

なんとか沢からは無事帰ってしばらくした8月末にその祖母は旅立って行った。

 

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夏に訪れた寺

 

 自粛が叫ばれる中で、コロナにかかるより前に遭難死でもしたら何と言われるか。

それでも8月はさらに北海道で利尻・礼文羊蹄山に行き、10月は谷川岳を縦走した。どれも難易度はさほどでもないとはいえ、落ちたら死ぬところくらいはある。

この時思ったのは、自粛期間と称して閉じこもっているのと登山で危ないことをするのではどちらがいいかだ。

登山はその行為そのものが危険だし、今はコロナの懸念もある。

ただ、自粛期間も人生の一部をすり潰しているに違いない。危険を回避するがあまり人生を浪費するのも考えものだ。

死は寿命を0にする。一方で1年の自粛は寿命を80か90分の1削ることになる。難しいところだ。

 

今年感じたのは"We are alive."であると同時に"We are dying"であることである。

感染症を拡大させないという大義はわかる。抵抗力のない高齢者が感染すると大変だ。

ただ、日本国内に流れるのは「こんな大変な時期に遊ぶなんて不謹慎」といった感染症と関係ない批判精神で、耐え忍ぶことをむやみに尊ぶ風潮である。しかしながら生きているということは一歩一歩死に近づいているという事実にはほとんどの人が目をそらしている。

 

危険だからやる登山と危険を避けるコロナ対策。私にとっては矛盾に満ちた1年となった。