石川直樹『最後の冒険家』を読んだ。
昨年、近所で石川さんの講演があって聞きに行った。話もさることながら、聴講者の質問がしっかりしている。誰もトンチンカンな質問はしない。テーマは読書と旅にまつわる話で、みんな一様に本が好きという人が揃っているらしい。
『最後の冒険家』はその石川さんの処女作。開高健ノンフィクション賞の受賞作で、熱気球冒険家の神田道夫をテーマとしている。
私は熱気球に興味を持ったことはなかった。
登山や自転車、カヌーなどの人力移動ではなく、熱気球はLPガスボンベで上昇する。スノーモービルで北極点に行くのと、犬ぞりで行くこと。モーターボートで太平洋を横断することと、ヨットで行くこと。
動力を使うか、人力や風、動物の力を借りて移動するのかで、何かが違う気がしていた。はっきり言ってしまえば動力を使うと冒険ではないと思っていた。
熱気球はその中間にある。化石燃料を燃やして上昇し、気流を使って移動する。ただ、飛行機でも行ける上空を熱気球で移動することにどのような意義があるのかさっぱりわからなかった。
読んでみてわかったのは、とにかく熱気球は繊細で過酷で、失敗が付きものであることだ。
登山、特にアルパインクライミングでは失敗は死につながることが多い。その意味では失敗できないし、撤退は「敗退」とも表現されるが、生還できれば失敗ではないとも言える。
しかし、熱気球は空での話だし、洋上や山中に落ちたらそれだけで死につながる。登山のようにロープを使って懸垂下降で降りるわけにいかない。おまけに比べ物にならないくらい多額の費用が必要だ。
危なくて失敗が多くて、失敗が死につながるという意味ではほとんど人が真似をしないだろう。本書はその空の冒険を追求し続けた冒険家の物語である。
思うに社会の大半は成功することの繰り返しで動いている。電車が発車の度に失敗していたら都市は機能しない。成功の確率を高めることが大多数の人間の務めとなっている。
神田道夫も給食センターの所長だったというから、給食作りで失敗するわけにいかない。ただ、冒険家はそこを抜けだして失敗ばかりの空に飛びだした。
角幡唯介さんは「グッバイ・バルーン」というエッセイで、神田道夫は冒険者の業に嵌ったのではないかと書いていた。その業というのは定義が難しいが、私には失敗すれば燃え上がる闘争心というか、挑まずにいられない気持ちのように思える。
そしてその闘争心こそが社会全体を進歩させてきたのは歴史が証明している。
巻末の言葉が印象的だった。
「絶対に成功するとわかっていたら、それは冒険じゃない。でも、成功する確信がなければ出発しない」
これは人生にも言えることかもしれない。