クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

お金を振り回す、お金に振り回されること

今、相方が「お金」について調べている。そんな高度な話ではなく、子どもに説明するためなのだが、これがなかなか難しそうだ。

物々交換から始まったというくらいはいい。お金と言うのは誰がその価値を保証するのかというのが現代に至るまで大きな課題となっている。これが説明しだすと難しそうだ。

 

角幡唯介さんの『アグルーカの行方』では北極圏を放浪した中で、1日5000kcalの食料でもエネルギーが足りず、極度の空腹に悩まされるシーンがある。大鍋で脂どろどろのラーメンを食べた直後に腹が減るという。直前に蓄えた体脂肪は燃え尽き、ボクサーのような身体になっていく。

そうなると必要なのはお金ではなく食料。相棒の荻田泰永さんと「俺のカロリーメイト、1万円で買わない?」なんていうやり取りをする。

極地で食べて動くだけの生活ではお金が無意味化するといういい例だ。

かつてのエスキモーたちにはお金の概念がなく、あれば使い切るおもちゃの役割だったという。食料や生活物資は基本自給である。隔絶された土地ではお金の価値はあまりないし、彼らにとっては生きるために狩りの技術を磨くことこそ重要だったのだ。

 

何の映画だったか忘れたが、ハッカーがギャングに利用されて銀行のシステムに入り込み、金を奪い取るという話があった。

これまでスーツケースに札束がどーんとあったのが、画面の数値の上げ下げに変わっている。画面の数値に一喜一憂するのは不思議な光景であるとともに現代を象徴している。ハッカーは一度、ギャングの口座に大金を送ったと見せかけて、すぐに元の口座に戻してしまった。そのハッカーもギャングの親玉も画面を見ているだけ。

映画の中でギャングはパンパン人を殺したり殺そうとしたりのだが、画面の数値のピコピコに殺されるようなものである。

今のお金持ちは江戸時代のように長者様は米蔵を抱えているわけでなく、数値の刻まれた通帳か液晶表示をもっている。どうもそれは生きている実感と遠いものがある。

お金は都市において生命維持装置なのにもかかわらず、その実は数字の羅列に過ぎない。別に現ナマに戻せなどという前時代的なことを言うつもりはないのだが、"0"が1つ多いか2つ多いかで一喜一憂する人生ゲームというのは滑稽であり哀しくもある。

 

さて、今はちょっとは生きる感覚を取り戻すべく山で雨に打たれてこようかと思っている。

f:id:yachanman:20210210073612j:plain