クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

釈迦に説法というような話

よくスピーチや会話の中で「釈迦に説法かとは思いますが」と前置きをして話す人がいる。

謙遜の気持ちを込めて言っているのだろうが、どうも釈然としない。釈迦に説法をしたら話し手が恥ずかしいばかりで、釈迦、この場合の聞き手を尊重したことにならないのではないか。

こういうつまらない想念に駆られて、肝心の部分で何を聞いたか忘れてしまうのである。余計な枕詞を付けないでほしい。

 

その道の人にその道を語るということは昔から往々にして起こるらしい。

団鬼六が篠原紀信に写真を語ったように、書家に書を、歌人に歌道を語るというエピソードが歴史上しばしば登場する。

ほとんどの場合、言われた方は自分の素性を明かすことなく、後で語った側が恥じ入るということが多い。得々とその道を語られると専門家の方も何も言えないのだろう。

棋士升田幸三は碁会所で将棋を挑まれたという。碁で負けたある男が「将棋なら負けない」と言って聞かず、将棋をしぶしぶ指した。当然プロだからコロコロと相手を負かせてしまうのだが、これは芸事だからご愛嬌。相手が武道家や格闘家ならえらいことになる。

 

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最近は顔がインターネット上で曝されるので、こういうことはなかなか起きない。せいぜい一般人だと思ったら意外な著名人だったというくらいか。

私は樋口久子さんを普通のおばちゃんと思って話をしていたことがある。別にゴルフの話でもないし、そもそも私はそれほどゴルフに興味がない。ただ「ガタイのいいおばちゃんやなあ」というくらいである。

昨年、機会あってマラソン瀬古利彦さんと顔を合わせることがあった。この時は恐懼に震える先輩をよそに、平成生まれの後輩は「ただの愉快なおっちゃん」と思っては話していた。

それでもインターネットによって興味のあることについてプロに得々と語るという状況は失われた。名前を検索エンジンに入れてしまえば素性がバレてしまう。

便利と言えば便利。しかし話のネタのジャンルとしては一つ減ってしまったのは残念だ。

 

山の友達は、山岳雑誌によく絵を描いているイラストレーターに

「絵上手いんですね」

と言った。どういうわけか、本職がクライマーで、趣味がイラストという人だと思い込んだらしい。確かにその人はクライミングに関する本を自身のイラスト・文で作っている。

そのイラストレーターは即座に

「俺イラストレーターだよ!」

と言い放った。