クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

東京人と大阪人

用事があって大阪へ行った。少し時間があったので大阪駅から歩いてみた。

早朝なので人も車もまだ多くない。そして気になるのが、信号無視が多いこと。もちろん大抵は歩行者だが、1度赤信号を渡る人と車がわりと近い距離ですれ違っていて、顔を見上げると、歩行者・車とも赤信号で進んでいた(車は黄から赤になったところ、歩行者はフライング)。

関東でも増えたが、信号機にカウントダウン機能が初めて付いたのは大阪だ。「いらち」と呼ばれる大阪人の信号無視をやめさせるために大阪駅至近の交差点に設置された。

最近大阪を歩くことが少なかったので気づかなかったが、この信号無視文化は妙に新鮮な発見だった。

 

これに比べると東京人は信号順守だ。私も関東にいるせいなのか、信号無視に妙な抵抗感がある。

しかしこの「抵抗感」だが、心理的に分析すると決してルール違反に対する背徳感だけではない。なんというか、信号無視した自分を見られているという自意識とでも言うのだろうか。「信号無視した自分を信号順守の人たちは心中で咎めているのではないか」と勝手に想像して、踏み出すことができない。

 

最近読んだ将棋の升田幸三のエッセイ集『王手』に東京人と大阪人の違いが書かれていた。升田幸三は広島出身で大阪でプロ棋士となったのでもちろん大阪贔屓である。

大阪人は実を取る。東京人が気にする体裁を気にしない。普段着で買い物かごを下げたおばちゃんが、ふらっと寄ったショールームで2万・3万のものを即買いするのに対して、東京の人はキレイに着飾らないと高級品を買いに行けない、などなど。確かに東京は無数にある他人の目が気になる場所だ。

もちろん升田幸三の時代は昭和の前半であり、東京も大阪も今のように他府県出身者が大半を占める状況ではなかった。ただ、世界一の巨大人口を抱える東京が人を統制するのは「恥文化」、恥ずかしくない行動を取ろうという考えのような気がする。

 

数年前、まだ東京勤務だった私の父は夜の交通量の少ない交差点を赤信号で渡って、

「信号を守りましょう!」

と自転車に乗った警察官に注意されていた。

父の主張は「信号は事故起こさんためにあるんやろ。車が来ないなら事故は起きひん」というもの。升田幸三流に言えば実を取っているわけだが、一緒にいた私は警察官に大声で注意される父を見て恥ずかしかった。

この感覚がこれが東京人と大阪人の狭間ではないかと言うのは飛躍し過ぎだろうか。