丸谷才一のエッセイ集『軽いつづら』で日本の政治家は失言が少なくてつまらないという文があった。アメリカ大統領なんかはウィットを効かせようとして「その件は娘(10歳)に訊いてみるよ」と言い、誤解されて失敗なんていう話があって面白い。
一方、日本の政治家の失言というのは確かに中途半端だ。恥の意識が強いのか、転ばないようにして転んで余計に恥をかいたような感じがする。
直近、森喜朗会長の「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」発言なんかは正直面白くない。もっと豪快な失言なら笑えたのに。
しかし、ここの「女性」というところをいろいろ入替えてみるとちょっと興味深いことが起きる。
「重役がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」
これは何の問題も起きない。
「老人がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」
これも多分セーフ。
「バカがたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」
これはちょっと問題になるかもね。「バカって誰だ!」と。
ではこれではどうか。
「埼玉県民がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」
多分怒るだろうね。埼玉の人。でもこれを「東京都民」に差し替えても怒る都民は少数だろう。
ここで何が興味深いのか。
怒るのは下に見られていると感じているから怒るのであって、上だと思っていたら怒らない。むしろ上の人間を叩くのは痛快と感じる人間も多いはずだ。
しかし、これが「女性」になると突然問題になる。なぜかと言えば「女性の多い理事会の方がスピディーでいい答えが出るに決まっている」と思っている人が少ないからである。
問題発言として目くじらを立てている人というのはどこかで女性の方が会議に向いていないと潜在的に思っているのではないだろうか。本当に「女性の多い理事会」がいいと思っていれば「ふふん、じじいが何言っているんだ」と鷹揚に構えていればいい。
どうも私は失言と批判を見るたびに批判する側の覆い隠した本音を探りたくなってしまう。
本で読んだ話。
北野武監督の映画「菊次郎の夏」の公開中、森首相(当時)がこう言ったという。
「北野さん、見ましたよ。『夏次郎の菊』」
日本の失言はこれくらいがちょうどいいのかもしれない。