今、勉強欲が少し出てきている。
この突発性勉強欲は不定期、所かまわず起きる。要するに好奇心の赴くままなので、役に立たないものにむやみに手を出している。
大学時代は、法律・経済・化学(理系向け)・地学・スポーツ科学・美術史・古文書学など、何が専門かわからない学生となっていた。
ちなみに専門は歴史。就職後に役に立ったのは化学(高圧ガスの資格のため)、法律(民法と労働法をやっていたら案外使うことがある)。
「古文書が役に立つのか!」というツッコミもあろうけど、先日仕事で古い戸籍を見ることがあり、崩し字を読めたことで戸籍同士のつながりを確認できたりした。
どこで役の立つのかわからないものだ。
先のブログで書いた服部文祥さんと大前研一には妙な共通点がある。
本人ではなく、ともに次男が高校を卒業していないことである。それも悪さをして退学になったとかでなく、「行く意味がない」と自己意思で行っていない。
この二人の共通点という意味ではそれを容認してしまうところか。いずれも高校の価値に疑問を持っているのは確かだ。おそらく本人が疑問を感じながら通っていたのではないだろうか。
自分で高校に行かないと決めると、その責は自分に降ってくる。一方で、高校、大学と何の疑問も持たずに行くのは、自分の人生を選ばない、自分でリスクを取る必要がないことを示している。
どちらがいいかはわからないけど、自分で自分の人生を決められる最初のチャンスを多くの人は逃していると言える。
今、高校や大学の無償化と言っているが政党がある。おそらく「大学に行けないなんてかわいそう」、「大学に行けたらもっと活躍できたハズ」という意識から来るものだろう。
御年90歳になる相方の祖父などは
「大学に行っていたら総理大臣になれた」
と豪語する自信家なので、こういう人が大学に行けなかったのは残念だ。戦争と満洲からの引き上げで勉強は兄弟から教わったのみだったらしい。社会人野球の腕だけで会社に入ってみたら周囲は東大やら慶応やらの秀才ばかりで大変だったという。
ただ、行きたいのに行けなかったのは過去の話。
今や情報や学ぶ術が溢れているわけだから、安易な「無償化」は少子化で潰れるべき学校が潰れないという延命処置ではないかと思ったりする。
問題は高校や大学に行けるかではなく学ぶ意志なのだ。
ところで今私が興味があるのはプログラミング。
今の小学生は学校でプログラミングを学ぶ子もいるらしい。私が小学生の頃は、アメリカでパソコン授業があり、「スゲー」と思って帰国したら日本は算盤の授業があるだけだった(パソコンと算盤を並べるのはやや悪意があるが)。
よくわからんが、プログラミングで何ができるのかくらい知っておいた方がいいかなと。
結局、学校の価値とは「この世界は面白い」と感じさせることなんじゃないかと思う。