東日本大震災から10年経った。
だから何か感慨深いものがあるかといえばそうでもないのだが、あの日、あの時どんな感じだったか、書いてみたい。
地震発生時、私は千葉県市川にいた。
京葉ガスのガスタンクの下で、メーカーの新製品の発表を聞いていたら突然の揺れ。一旦、揺れが落ち着いたと思ったら、再度余震あり、発表会は中止に。隣にいた関係会社の人によれば携帯電話が通じないとのこと。駅まで行くと電車は止まっている。当時住んでいた横浜まで無補給徒歩で帰るのはおそらく難しい。
駅の周辺地図を眺めると、錦糸町まで2駅だった。当時錦糸町には父親が単身赴任で住んでいたので、そこを目指そうと考えた。
地震発生直後の街をてくてく歩く。
何事もなかった気がする。少なくとも歩き始めた時、車は自然に走り、人も普通に歩いていた。
歩きながら不思議な思いにとらわれる。今自分が無事なのは自分しか知らない。いや、四六時中生存確認を取るなんて不可能。生きていることを知っているのは常に自分だけなのだ。
市川から錦糸町までは歩いて1時間かからなかった気がする。徐々に公衆電話に列ができ、コンビニの前にも人だかり。
なんだかとんでもないことが起きていることをようやく察した。
しかし、今できることは父親の住む社宅まで歩いて、今日の寝床を確保するだけである。
錦糸町のマンションの前に着いても携帯電話は不通のままだった。
今日父親が帰ってこなければ飲まず食わず、野天で過ごすことになる。少し焦る。
それでも心に余裕があったのは、昼食をしっかり食べていたからだ。市川で定食をご飯大盛にして食べ、水もガバガバ飲んでいた。それに体力も十分。明日電車が動けば帰れるし、動かなくても何とかなるだろう。
それでもさすがに非常食は用意すべきかとマンション隣のコンビニをのぞくと、商品はすっかり空っぽになっていた。
夕暮れが迫る。
いつまで待てばいいかわからないと少し不安だ。携帯電話は電池の消耗を防ぐため、時々電波をONにして、不通ならOFFに戻していた。
何度かのチャレンジの後、ようやくEメールを父親に送れた。少しすると「すぐ帰ります」と素っ気ない文面が返ってきた。
父親がマンションに戻ってきて、がらんとした部屋に入れてくれた。そこで初めて東北が「とんでもないこと」になっていると聞いた。
しかし、何がどうとんでもないのか私にはさっぱり実感がなかった。