クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

将棋と登山の最高峰

将棋の名人戦が始まった。

藤井聡太二冠の活躍で息を吹き返した将棋界だが、その藤井二冠もまだ挑戦できないのが名人戦である。名人戦はトーナメント方式の他の棋戦と違って、A級からC級2組までの5つのクラスに分けたリーグ戦形式で1年間戦い、A級の首位が挑戦できるシステムとなっている。藤井二冠はこのリーグ戦・順位戦でまだ1敗しかしていないのだが、来期にB級1組というA級の手前なので、まだ名人にはなれない。

ちょっとググればわかる話を書いたけど、要は最高峰には簡単に登れない仕組みになっている。

 

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富士は日本一の山

将棋界には序列がある。実は序列は名人が最高峰ではなく竜王だという。なぜかと言えば賞金が高いからだ。

プロの将棋はわかりやすい弱肉強食の世界で、強くないと生きてゆけない。もともと終身制で、密室政治的に決まっていた名人の地位を関根金次郎、木村義雄という昭和初期の時代に実力性として開放したことから今日に至っているのだから、これはまあ当然。坂口安吾もこの実質本位のシステムを「散る日本」で賞賛している。

賞金で決めるのは異論をはさみにくい。

 

「山高きが故に貴からず」という言葉がある。

世界ならエヴェレスト、日本なら富士山。登る困難から言えば高いから難しいわけではない。

高ければ登る距離は当然伸びるのだが、困難さは登る人数に反比例する。このあたりは将棋などのように多くが目指して1人しか登頂できない最高峰と違う。登れる人数に制限がないのだから、たくさん登る人がいる方がトレースも付き、登り方も確立し、登りやすくなる。

そうすると、先鋭的な登山者はだんだんNo.1からOnly 1を目指すようになってくるのは当然で、今や7000m峰の方が難しくて面白いとか、6000m峰だとか、藪山や沢登りの方が困難だといろいろな価値観が出ている。より複雑な価値観であり、もはや専門家でも理解不能

なぜそんな方向に進むかと言えば、その方がそれぞれ面白いと感じているからだ。

プロの将棋は白黒の世界に収斂されていくのに対し、登山は大樹の根のように枝分かれしていく。この逆の動きが私には面白く感じる。

 

多様性の時代と言いながらも、世界には価値観を均質化しようというベクトルは常に存在する。善悪、優劣、巧拙。2色に塗り分けないと気が済まない人というのが一定するいるのだ。

そんなに世界を単純に塗り替えては面白くない。せめて地図を塗り分けるのに必要な四色くらいは頭の中に持っていたい。