「カーニバル理論」というものを聞いたのは予備校時代だった。
「カーニバル(祭り)は日常の息抜きにあるのではなく、カーニバルのために人は生きている」というものだったと記憶している。授業の内容ではなく講師が個人的に学んでいた哲学の話だった。
受験に関係しない内容ほどよく覚えている。
30歳に差し掛かったころからこの「カーニバル」が妙に実感を込めて感じるようになった。「人はパンのみにて生きるにあらず」ではないが、「遊びをせんとや生まれけむ」。楽しむための人生ではないかと考え方が変わったのだ。
この頃からやけに忙しくなったからかもしれない。
何かをするために何かをする。「いい学校に行くために勉強する」とか「いい人と巡り合いたいから自分を磨く」とかという目的意識に縛られていると、とにかく時間がない。
面白い登山がしたいからクライミングを鍛えるということはしたが、クライミングそのものが楽しいからやっているだけで、楽しくなければやらない。マラソンは登山のトレーニングに始めたが、やがてマラソン大会そのものに出るようになった。
これまでの地道な努力から一転して、即物的、快楽主義に変わって行った。
その頃に会った友人たちも、一瞬一瞬を楽しむ達人たちだった。
遊びも仕事も全力。そこに日本的ガンバリズムの考えはない。
今、コロナの影響で、そういう友達たちと会えないのが非常に残念だ。会える時に会っておいた方がいい気もするが。
人生には締切があるのだから。