クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

「最後の晩餐」と死について考えること

週末、久しぶりにラジオを聞きながらランニングをした。聞いたのはFM横浜"Futurescape"で小山薫堂さんの渋い声が相変わらずいい。

今回のテーマは「死」について。生物学者の小林武彦さんが出した『生物はなぜ死ぬのか』という本を出している。私も登山をやっていると「死ぬかも」ということは意識するものの、案外「死」とは何かについて正面から向かい合ってなかったという気がする。

 

小林武彦さんの結論としては、生物は連綿と続く生命の一部であり、一個体が死ぬのは生命を次に受け渡すためだとしている。つまり、死は次の世代の始まりを意味しているというわけだ。

なるほど生物学者だけあって、反論しようのない言葉。これ以上もこれ以下もない。

しかしながら、そうも簡単に割り切れないのが人間である。

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最後の晩餐は何にしよう?

ラジオ番組のテーマには「死」とともに「最後の晩餐」というものがあり、リスナーからいろいろな投稿があった。

「やはりシューマイ弁当でしょう。これでおシューマイ」

というようなシャレを効かせたものから、

「回っていないお寿司がいい」

という生活感漂う意見まで。「最後の晩餐」の言葉の元となったイエス・キリストのように処刑される最後なんかではなく、基本的に天寿を全うした場合の意見が多い。そもそも「死」が抽象的で、現実感のないものであることがよくわかる。

 

そういえば、昨年相方の祖母が亡くなった。

その祖母の最後の晩餐はコロッケである。それまで流動食のようなものしか食べられなかったのに、唐突に「コロッケが食べたい」と言い出したらしい。そして夫がローソンで買ってきたコロッケを半分もむしゃむしゃと食べると、以降はまったく他の食べ物を受け付けず、少しして昏睡状態となった。

生前は洋食好きのハイカラなおばあちゃんだったらしい。周囲はその意味でも最後の晩餐がコロッケというのが意外だったようだ。

 

人間いつ死ぬかわからない。ただ、死ぬことについて考えることは難しい。

そうであれば最後の晩餐に何を食べるのか考えるくらいが、最も「死」について真剣に考えることにつながるかもしれない。