クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

早く来い来い自動運転社会

九州旅行をしようという中で考えるのが、レンタカーを使うかということ。運転は嫌いではない。就職した当時は毎日、マニュアル4速・パワーウィンドウなしの営業車に乗っていた。

しかし、今は車を運転すると考えるだけで億劫になる。「嫌いでない」と言いつつも運転をする限りは事故を起こしてはならない。運転をしていた2年ばかりは無事故無違反で切り抜けたものの、続ければ生涯無事故無違反で済む確率はグンと低くなる。

運転ができれば山にも行きやすいのはわかっているのだが、どうも踏ん切りがつかず未だ徒歩と自転車の人となっている。

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最近、再びの自転車マイブーム

ホッド・リプソン、メルバー・カーマン著の『ドライバーレス革命 自動運転車の普及で世界はどう変わるのか?』を読んだ。

面白かったのは、自動車文化の元祖たるアメリカ人も運転は嫌いということだ。1939年の万博ではGMが自動運転社会のモデルを作ったという。イメージはゴルフ場のカートのように、道路が自動車の動きをコントロールする仕組みとなっている。構想は実現段階でコストがかかり過ぎることから断念されたが、この時代から人々は車が自動で連れて行ってくれる未来を夢想していたようだ。

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自動車と徒歩の人

先日、NHKスペシャル「EVシフトの衝撃~岐路に立つ自動車大国・日本~」とう番組を見た。内燃エンジンで世界を席巻した技術で今度はEVでもという日本企業の取組みを取材している。本田技研では高性能な小型電池の開発に注力し、トヨタ自動車では水素エンジン車の開発を急いでいた。

しかし、私からすると、世界一の技術があれば今後も自動車業界は安泰だと考えている時点で間違っているような気がする。

世の人々は想像以上にものぐさなのだ。自動車に求めるのはスピードでも航続距離でもなく、楽に目的地へ行ける手段である。

私は、ゆっくりでもいいから自動で動いて、多少ぶつかっても大丈夫な車がほしい。

金曜日の夜に出発したら土曜の早朝に目的地に着いているというのが理想。運転免許制度も撤廃してもらえれば、免許センターで毎度「安全運転の心得」なんか聞かなくて済む。

『ドライバーレス革命』が指摘するように、これからの自動運転車開発の肝はソフトウェアだろう。ハードにこだわり過ぎる日本メーカーに不安を覚えている。

ともあれ、自動運転は80年以上も前から人々が熱望した技術であって、それが早く実現して山へのアプローチが楽になることを祈っている。