クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

山小屋に生きるということ

週末は工藤隆雄『山小屋主人の炉端話』を読んだ。1998年から2000年まで『岳人』に連載されていたコラムで、表題のとおり山小屋の主人の思い出話が綴られている。

 

思い返すに、私はあまり山小屋に泊まっていない。テントが大半を占めている。理由はいくつかあれど、自力で登りたいという意識がどこかにある。自力というのは、小屋などを当てにしないということでもある。

もちろんテント場だって整地されていて、水場も用意されている以上、自力とは言い難いのだけど、テントの中は個室だし、自由と自立が両立しているテント泊の方が好きだ。

本にも登場した甲武信小屋

しかし、この本を読むうちに山小屋というものが妙に気になった。

登山者は山へ非日常を求めてやって来る。山小屋側は仕事として受け入れる。この構造は下界のレジャーと変わらない。

ただ、山小屋の主人にとって山は仕事でもあり、生活の場でもある。

われわれは心の潤いを求めて山に入る。したがって、山中で怒ったり、悩んだり(時々道に迷ったりするけど)、人生を悲観したりすることはない。基本は快楽を求めて登るのだから、俗世の煩わしさを脱ぎ捨てて山に入る。一方、山小屋の主人にとって山は日常である。不届きな登山者がいれば苛立ちもするだろう。

振る舞い酒を出してくれた権現小屋にて

私はが山小屋を避けていたのは、日常と非日常の裏表にある山小屋の人たちを無意識に避けているのかもしれない。テキパキ働かれるのも、苛立たれるのも気が重い。

呑気に遊びに行っているそばで見せられる日常が私には重いのだ。

しかし、この本を読んで少し認識が変わった。鉄筋コンクリートの中で仕事をするよりよほど精神衛生上良さそうだ。そして、そこで磨かれた感性は都会に比べてずいぶん繊細なようである。