クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

「不惑」について考える

先週末、ふと「不惑が近づいとるなあ」と思った。

朝起きて「絶好調!」という日は少なくなり、身体か頭のどちらかか、両方が重い。身体を動かし始めるとそうでもないが、疲れは抜けにくくなっている。

これが不惑というものだろうか。

最近読み直した服部文祥さんの本では不惑について、もう「惑わない」というより「惑えない」年齢だと書いていた。人生の軌道修正が効かなくなり、一から何かを始めるのは難しい。だから、もう惑えないのだと。

同じく冒険家・探検家ジャンルでは角幡唯介さんも似たようなことを書いている。人生の選択肢が限られてきて、迷わなくなる。

私も二十歳の時は将来どうなるか全くわからなかった。就職しても「自分が定年になるまで会社があるかわからん」と思っていたし、今でも「日本に一生いるかわからん」と思っている。かといって、今から弁護士を目指したり、数学者になったり、原子力研究者になるのは難しい。

今、二十歳を迎える子たちに比べると迷うことができなくなっている。

一方で、「人生は四十からやり直せる」ことを示す人もいる。

先日家に来た相方の友人は、この間翻訳の仕事を獲れたという。海外を放浪しながら英語力を磨き、今は保険の仕事をしながら翻訳の勉強をして、偶然来たチャンス。これを次に繋げたいと意気込んでいた。

機械翻訳の登場で翻訳業は全体として厳しい環境にある。それでも果敢に挑戦する人のもとにチャンスは訪れるのだろう。彼女は「やり直している」意識はないだろうが、放浪、保険、翻訳の転身は人生をオーバーホールしているようなものだ。

不惑になっても前進し続けている姿はなんともカッコいい。

 

そもそも「不惑」とは『論語』にある言葉である。

子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。

子とは当然、孔子を指す。ただ、中国の春秋戦国時代だから平均寿命はせいぜい40か50歳くらいではないだろうか。「三十にして立つ」は遅い気がするし、七十まで生きるのは一握りだろう。

その意味ではこれは未来にむけた言葉だったのかもしれない。

不惑になって惑わない人、惑い続ける人。それぞれの人生を見つめなおすための。