クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

PK戦の不思議と野球の理不尽

日本代表のサッカー・ワールドカップが終わった。

そう書いてみたものの、今回もほとんどオンタイムで見ていない。何しろ深夜である。早寝早起きの私はいつも通り寝て、翌朝結果を知るばかりだった。

 

それにしてもPK戦というのは不思議なシステムだ。サッカーファンには当たり前かもしれないが、相方は「ジャンケンみたいな勝負」と評した。

奥田英朗がスポーツエッセイで、「もし野球で延長戦の末、『勝負が決まらないので、ホームラン競争で勝敗を決めます』となったらファンは黙っていないだろう」と書いていた。

アメリカ・メジャーリーグベースボールなんかは徹底的に試合をする。日が暮れ、投手を使い切っても、野手が投げて深夜まで試合が続行される。引き分けは許されない。

それを思うとPK戦は「ジャンケン」と見えるかもしれない。

一方でサッカー国民からすると、野球は不可解なスポーツである。

父が以前、ドイツ人を野球に連れて行ったところ、そのドイツ人は全く野球を知らなかった。父は一生懸命に英語でルールを説明するが、とてもじゃないが説明しきれない。

ボールを投げて、打つ。ここまではいいにしても、打つ範囲、ダイレクトキャッチとバウンドキャッチ、犠牲フライ。打つにしてもインフィールドに入れないといけないし、サッカーと違って球場の大きさまで場所によって違う。

見ていればおおよそルールのわかるサッカー国民からすると、野球は規則だらけの上に曖昧なところもある理不尽スポーツに映っただろう。

 

ワールドカップはダイジェストでしか見なかったが、試合もさることながら、観客の一喜一憂の表情を見ているだけで楽しい。ゴールすれば狂喜し、外せば絶望的に嘆く。特にガーナ戦とかは観客席ばかり見てしまった。

最近、ビジネスの世界でよく多様性というのだけど、日本の多様性はジェンダーの話ばかりに終始している。多人種国家ではないから、多様性という概念を輸入しても、使える範囲が限られるのだ。

本当の意味の多様性は喜怒哀楽を共有するサッカーの観客席にあるような気がしたのだが、どうだろうか?