クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

英語力と思考力の関係

最近、相方が英語の勉強を再開した。英検を受けるのだという。私も英語はやらないとなあと感じている。

英語をやる理由は、仕事で少々必要なことと、いろいろ調べ物をするのに、英語の資料の方が充実しているからだ。Wikipediaなんて英語と日本語でボリュームに相当の隔たりがあるケースがある。

日々、日本語でブログを打っていてナンだけど、英語はできないよりできた方がいい。

このところ英語の早期教育が百花繚乱の状況である。

しかし、藤原正彦さんは英語の早期教育に断固反対だそうだ。若かりし頃にアメリカやイギリスで研究を行った数学者が、教育の基本は一にも二にも国語だと言う。やはり父親が作家・新田次郎ということで、日本語への想いはひとかどではないのだろうか。

相方に言わせると英語教育を重視するあまりに日本語を疎かにする親が多いようだ。英語ができれば日本語ができなくても生きてゆけると考えている。ただ、思考の固まらないうちから両方を始めると、他にも悪影響がみられるという。

ほとんどの日本人が日本語で考えて生活している。それが英語と日本語の両方を一度に覚えようとすると、思考のツールとなる言葉が半分になってしまい、算数も社会も理解力が半分になるようだ。

 

私も言語と理解力について考えることがある。

後輩に文章を書かせると、主語・述語も接続詞も合わない文を作ってくる。これが単に作文の得手不得手ならいい。慣れればできるようになる。

ところが、よくよく訊いてみると書くべき内容そのものを理解していないことが多い。本来、文章化するプロセスで自分の無理解に気が付く。ところが自分で作った文が「おかしい」と気づく読解力もないので、理解していないことも理解できないのだ。

こうなると思考力の問題で、英語とか日本語以前の話となってしまう。

 

私は英語で考えようと日本語で考えようとどちらでもいいと思っている。

語学を趣味としている弟は英語で考えて英語で論文を書く方が効率的なんだとか。その意味では英語の早期教育も悪くはない。

しかし、いずれにせよ言語力を鍛えなくては思考もついていかないことを肝に銘じておくべきだろう。