クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

生成AIが言葉を綴るということ

はてなブログのトップページには「思いは言葉に。」というメッセージが載っている。

うーむ。いい言葉だと思う。

最近、しみじみと感じるのは自分の考えであれ、思いであれ、言葉にするのは難しいということ。もっと言えば論理的に他人にわかるように文章化するのは難しいということだ。

 

こんなことがあった。

社外に出すコラムにある団体への寄付を行っていることと災害義援金を送ったことを載せようということになった。2つは全く性質の異なるものなので、まとめるのは少々難しい。

担当の後輩がもう書きましたというので見てみると、

「**地震で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。当社は**地震への災害義援金を***円提供しました。当社は***団体に寄付を行いました。**地震からの1日も早い復興をお祈りいたします」

といったことが書いてある。

おそらく生成AIを使って作文したのだろう。義援金の話と寄付の話の間に脈絡が全くないし、地震の話がサンドイッチのように前後に挟まっていて、団体への寄付と関係があるのかもよくわからない(実際は全くない)。

要はこれを作った彼は自力で文章を作るのを諦めて生成AIを使ったわけだが、今度は自力で読みこむこともできていないので、機械に遊ばれているだけなのだ。

少し愚痴っぽくなってしまった。

生成AIは前後の脈絡ではなく、言葉の関連性のみで文章を構成する。しかも、多くは英語を主としているので、英語で質問を打つとわりと正確なのだが、日本語はやや不得手だ。

論理的に考えるということは機械にもある程度はできる。しかし、「ある程度」かどうかも読める人にしかわからない。逆に読める人は書くこともできるから、楽をするために生成AIを活用できるし、別になくても困らない。

すなわち生成AIは、「できない」人が「できる」ようにする道具ではなく、「できる」人が「より楽にできる」道具なのだ。

 

そう考えると、うーむ。新井紀子さんが浮かれている場合ではないとコラムに書いていたが、それもよくわかるようになってきた。