来年2月に開催されるマラソン大会に応募してしまった。
今年は3年ぶりに参加して、前回より2分タイムを縮めることができた。来年は寄る年波にまだ逆らえるだろうか。
『BE-PAL』に連載している角幡唯介さんのコラム「エベレストには登らない」に「老化の喜びと不安」という記事があった。
人は年を取るとなぜか身体の不調自慢、故障自慢を始めてしまう。若い時はこうは「なりたくない」と思いつつ、不調を楽し気に話している自分がいて、理由を考察してみたという内容だ。
角幡さんの結論として老化によってできないことが増えると、やらなくていい自由が手に入るということだった。それまで「頑張らないと」と考えていたことが、「年だし仕方ない」に変わることで、重荷から解放されることに快感を覚えているのではないかという説である。
確かに毎週のように山に行っていた時は、
「天気はいいし、体調も悪いわけではない。この週末を逃すと登れなくなるかもしれないぞ」
と自分を追い込んでいた。それが最近は「天気はいいけど、今週は疲れてるし...」と言い訳するようになってきた。これが一歩進むと
「いやぁ、今膝の調子が悪くてねぇ」
となっていくのだろう。
吉行淳之介が「若いということは濡れたシャツを着せられているようなものだ」と書いていた(気がする)。この真に意図するところはわからないのだが、年長者から「若いんだから」という言葉を掛けられる都度思い出したセンテンスだ。
若いというだけで何の実績も自信もない。ただ、周囲は「若いんだから頑張れ」てなことを強制する。それに対する苛立ち。
老化による不調を解放感を感じるのはこの「濡れたシャツ」を脱いだということだろうか。それともカピカピに乾いたということなのだろうか。
あるいは着ていたことすら忘れてしまったということなのだろうかと、思わず考えてしまう。