クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

敗退の山

気が付いたらもう2ヶ月も山に行っていない。

「まだ登山やってるの?」と訊かれると「やってますよぉ」と応えるものの、現在は開店休業中といった具合だ。そろそろ行かないと登れなくなりそうで怖いのでとりあえず通勤時に駅まで駆け足をして運動不足を補っている。

ただ体力とかもそうだが行かないと免疫がなくなる気がする。体が山に負けるのだ。

 

登山を完遂せずに途中で引き上げることを「敗退」と呼ぶ。これは登山を始めてから知った。

山と戦うわけでもないのに「敗退」と呼ぶのは、ヨーロッパにおいて登山が軍事的な意義を持っていたことに由来するからである。ハンニバルもナポレオンも山越えを成功させることで戦略的な優位を築いた。古来から戦争はポジションの奪い合い、つまり移動能力が勝負の鍵となっている。山のような場所で素早く移動することはそのまま勝ちにつながるポイントだと言える。

 

日本は山がちな地形であるにもかかわらず、ヨーロッパのような近代登山は勃興しなかった。山は主に杣人や猟師の生活空間であったり、修験者の修行の場であった。山城は古来から防衛拠点としてあるものの、里から生活物資を送るなど最低限の利便性を確保した、いわゆる里山に限られている。

山越えで有名なのは厳冬期の北アルプスを横断したという佐々成政だ。これは織田信長が本能寺で斃れた後、豊臣秀吉に攻められた成政が徳川家康に救援を求めるために北陸から静岡へ赴いた。移動距離からすると、トランス・アルプス・ジャパン並の驚異的な行動であるものの、これは「お遣い」であって軍事行動とは言えない。

軍事行動という意味では源義経鵯越の逆落としが有名であるもののあまり例を見ない。日本の山は樹木が多くて大人数で移動しにくいからかもしれない。

日本の近代登山は明治時代に入ってからウォルター・ウェストンなどのイギリス人によるものが大きい。ヨーロッパの登山用語が流入したことで、日本の登山もこれまでの信仰や生活から「戦い」へと変わった。

 

私も登山に行って何度か「敗退」している。

一番印象的な敗退は7年前の夏に行った山行で、上高地から槍ヶ岳へ登り、大キレットを経由して奥穂高岳まで縦走するのが当初の予定だった。

キレット槍ヶ岳穂高岳をつなぐ尾根で、一般ルートの中では最高難度が付けられている。最高難度と言っても、落ちたら死ぬという話だけで、難所にはボルトや梯子がかけられているので極端な身体能力は必要としない。ただ、ルートが長いので悪天候に捕まると危険が高まる。大キレット縦走の成否は天候と体調によるところが大きい。

8月のお盆休み真っ盛りの時期に初めて上高地に足を踏み入れた。人の多さに驚く。

1日目は昼ごろに上高地をスタートしたので、梓川沿いを歩いて横尾で1泊。2日目は槍沢から晴天の中で鈴なりに人が並ぶ槍ヶ岳に登った。頂上に立ったころから少しずつ雲が沸き始めたものの、2時には大キレットの端部となる南岳小屋でテントを張ることができた。

f:id:yachanman:20190313085813j:plain

槍ヶ岳頂上より穂高岳、大キレット方面を望む

 

天気予報では3日目の午後から天気が崩れ、雨が降り出すとなっている。当初は早朝に出発し、核心部を抜ければギリギリこの大キレットを縦走が達せられると考えていた。しかし、夜中から風が強く吹き、昨日までの好天は何だったのかと思えるくらいに空は不機嫌な表情となっていた。

時間との勝負だ。顔を引き締めて南岳小屋から下降を始める。下降を始めてわずか20分くらいだったと思う。冷たい風が吹きあがってきた。

「うっ!」

と声が出た。夏とは思えないヒヤリとした風。風の冷たさより背筋が寒くなる感覚があった。

次の瞬間、サーッと細かい雨が降り注いだ。

「これはダメだ」

瞬時にそう悟り、慌ててレインウェアを着るとガレた道からの撤退を始めた。南岳小屋に引き返すと身体は芯から冷え切り、しばらく小屋の入口で休憩せざるを得なかった。

その日は結局南岳から天狗原経由で横尾、徳沢へ下山し、徳沢にテントを張ったものの、随分時間を持て余した。もう上高地から下山もできたのだが、帰りのバスは翌日に予約していたので、停滞せざるを得なかったのだ。

 

はっきり言ってこれは大した山行ではない。夏の一番良い時期に北アルプスに行って、予想より少し早く悪天候が訪れたので諦めて撤退しただけだ。

では、なぜこの山行を取り上げたかと言えば「敗退」が印象的だったからだ。この時まで私は山ではっきりとした敗退を決意したことがなかった。なんとなく無理かなと思って引き返したことはあるものの、「決断」と言えるようなはっきりとしたものではなかった。

しかし、この時は敗退して雨が降りしきる中で下降を続けていくうちに、今回の「敗退」は間違いではないと感じるようになっていた。雨が激しくなり、身体が振られるような風が吹く中では「敗退」は正解であり、。あのまま突っ込んでいたら大キレットの核心部で振り落とされただろう。

敗退にかかわらず感じた充実感がなぜか忘れられなかった。

それはこの「敗退」という決断の時に初めて山そのものを感じ、山には勝てないことを悟ったからかもしれない。

所詮、人は山に勝てないのだ。

社長室の扉

社長室の扉の話をしたい。抽象的な社長と社員のつながりとか、会話という話ではなく、物理的な扉の話である。

社長と言ってもいろいろあって、1万人を超える社員を率いる社長とか、従業員が1人しかいない社長、オーナー社長にサラリーマン社長、雇われ社長。どんな社長であっても会社組織のトップに違いない。トップだから社長室なんかもあったりして(ない会社ももちろんあるけど)、扉もちょっと他と違っていたりするのである。

なんとか室と名のつく部屋で私たちが初めて意識するのは「校長室」だろう。校長は学校組織の社長みたいなものだから、大抵別室が用意されていて、そこだけ別格の雰囲気を備えている。

私の高校生時代、悪さをすると(と言っても早弁したとか煙草を吸ったとかのかわいい悪さ)、「校長室への呼び出し」があった。悪さをするのも本当のワルではないので、まず校長室の扉にビビることになる。そしてその重い扉を開いて校長先生に会い、自らの行いを悔い改めるわけだ。

同級生に学校にエロ本だかエロDVDを持ってきたことが発覚した奴がいる。当時、少年のナイフによる犯罪が世間を騒がせており、学校ではとりあえずの持ち物検査を行った際、見つかったという運のないものだ。しかも形だけの検査だったのにもかかわらず、隣の同級生が

「あいつ何か持ってますよ」

とチクったのが直接的な要因で、当人も「おいやめろよぉ!」

などと本気になって抵抗したが最後、御用となった。

ちなみに、そうやって検査をして見つかったナイフは全校で1本もなく、エログッズ所持の奴だけが憂き目に遭ったのだった。

それはともかく、彼はこの「事件」により初めて緊張の校長室の扉を開き、学校長の前で2日間にわたって写経をし、心を清めて再び扉を出た、かどうかはわからないが、校長室の木の扉の重さを実感したのだった。

 

 私は校長室の扉を開くことなく卒業した。そして会社員として社長室の扉を開いたのは過去2度ほど。社長の対外的な挨拶文の原稿を書いて上司に出したところ、「これを書いたのは誰だ?」となって呼ばれた。何を言われるかと思ったら、

「ここの"オリンピック"は"オリンピック・パラリンピック"にした方がいんじゃないか!?」

昨今はパラリンピックはオリンピックと同等であるという世論があるのでその通りだ。

「ここの語尾は"です"に変えた方がいいんじゃないか!?」

趣味の問題だが、しゃべる人が変えたいなら変えた方がよい。

とまあ、3・4箇所を変更して、社長に原稿を再送付するというだけの簡単な話だった。話は簡単だったものの、初めて社長室に入ると、高級そうな木の大きなテーブル、腰高の棚には液晶テレビと地球儀(海外取引が多い会社ではないのだ)、その前に大きな社長用の椅子にデスク。

ザ・社長室という風情で、なんだかわからんが偉いのだろう。

ただ、ここで仕事をしたいかと言われると「うーん。別に」。

 

なぜこんなことを書いているかというと、社長室の什器類の精算をしていると、扉1枚が50万円くらいして、「たかが扉が偉そうに」と感じたからだ。そんなに高いと足で閉めることもできないではないか。

しかし、日本の建築というのは(日本にかかわらないかもしれない)扉を過剰に意識するところがある。「門戸を叩く」というように、扉は家の象徴であり、江戸時代の蟄居閉門という罰は文字通り門が開かないように釘を打ったという。

門が立派なのは偉い(または偉そうな)ことの証であるわけだが、マイホーム・マイカーには興味を示さない私を含めた今の世代にはとんと響かない。建具や什器にこだわるのもいい加減にしたらと思ったりする。

会社の場所や社長室の装飾にやたらとこだわる経営者は、そのうち「ぬりかべ」に押しつぶされるだろう。

友達の作り方

普段、読書は好きだがマニュアル本やHow to本はあまり読まない。特に自己啓発本のような「こうしなはれ。しないからあなたはアカンのです」といった本は心の負担になるので嫌だ。

ところがスマホになってからは困ったらすぐに検索するようになった。法律から業務用機械まで、行政から名も知れぬ個人の記事まで何でも載っている。

堕落するなぁ、記憶力が落ちるなぁと思いつつも何かと検索してしまう。


しかしネットにはいろいろな情報、虚実曖昧なものが溢れているものだ。それに、書籍なら売れないものは作らないが、ブログなら関係なく掲載できる。このブログもその一つではある。

最近「友達の作り方」という記事を見てみた。「そんなもんにマニュアルはいらんだろう」という意見もあるだろうけど、案外こういう記事が面白かったりする。


あるサイトに「とにかく話しかけよう」と書いてある。まあそうだろうな。

ただ話しかけるのが苦手だから悩む人も多い気がする。長く話せない人はどうしよう。いきなり「友達になりましょう!」という人はいないんじゃないかな。

まあ話ができる相手が友達なのだから、話かけねば始まるまい。


「こんな趣味はいかが?」という具体的な提案をしているサイトもあった。

確かに社会人になって転勤になるとそれまでの人脈や友達関係から切り離されることが多い。趣味が一番共通の話題をもたらしやすい。

料理、英会話、ボルダリングなどなど。職場は利害関係にある集団だから、それとは隔絶された友達がほしいというのも当然の成り行き。

私もボルダリングジムには行くが、静かに壁を見ていることが多い。もっと頻繁に行って、レベルを上げれば知り合いも増えるだろう。友達目的の趣味はあてが外れそうな気もする。過度な期待をしないならいいかもしれない。


SNSやサイトを使うというのもあった。友達作りサイトなんていうのがあるらしい。ちょっとこれはついて行けないぞ。

まあmixiFacebookも友達作りサイトと言ってもいいかもしれない。要はきっかけ作りと割り切れば良いとは思う。ただ、Facebookの“友達”って本当の意味で友達と言えるかはやや疑問だ。ジャイアンが「心の友よー!」と叫ぶのに近いように思えるのだ。単に都合の良い時の友達にされないように気をつけないといけない。


あとは個人的なお話が載っている記事もある。

そもそも友達作りに普遍性はないのだから方法を知りたければ個人的な話を見て自分を勇気づけるというのが早道かも。


しかし、いろいろ見ているとぶつかる疑問が「友達って何だ?」ということだ。学校時代は一緒に昼ごはんを食べるとか、登下校が一緒とかあるが、それでも本当の友達と言えるか疑問になる子も多いという。大人になれば利害関係で繋がる人を友達と呼ぶかも疑問だ。

鴻上尚史さんが「おみやげ」を与え合う関係が友達と書いていた。なかなか含蓄である。ここで言う「おみやげ」とは、物だけでなく言葉や精神的なものも指す。この人の笑顔を見るとホッとする、なんかも「おみやげ」を受け取ったことになるという。

そう言われると、自分は数々受け取っている自信はあるものの、与えている自信はあまりない。「これって、ひょっとして片思い?」という思いも湧いてくる。


さてさていろいろ見ても結論が出ない。最後に個人的まとめを書いてみよう。

私が周囲の人を見る中で、友達と言えるのはシンプルに「尊敬できる人」だと思う。能力が高いという人もいるし、いい性格だなという人もいる。

友達の作り方は人それぞれだが、相手への敬意をビビビッと伝えれば相手も応じてくれるんじゃないだろうか。一方で他人に敬意を持たない人はずっと友達ができないと思う。相手を尊重することに始まるというのが持論だ。

何?そんなに簡単じゃない?まあ私もそんなに友達が多いわけではないよ。

バイリンガル

正月に実家へ帰って1年ぶりに弟と会った。去年は半年イタリアの大学で過ごし、南アフリカブルガリアの学会などにも参加したらしい。世界中飛び回ってエンジョイしている。

彼はイタリアへ行ったのを機にイタリア語の勉強を始めたという。語学は彼の趣味で、日本とアメリカの大学で勉強していたので日本語と英語はほとんど何の問題もなく使える。大学時代から独学でドイツ語とフランス語をやっていたので、これらは日常会話以上はできるそうだ。イタリア語は始めたばかりだが、ラテン語系言語は根が同じなので、挨拶やちょっとした会話くらいはできるようになったという。我が弟ながら気味が悪いほどだ。

二ヶ国語ならバイリンガルで、五ヶ国語をしゃべることができる人はペンタリンガル。あまり聞いたことがない。

 

その弟がイタリア滞在中に地下鉄を利用した際、地元のおばさんに話しかけられたことがあった。日本人のオタク系ラガッツォ(イタリア語で「少年」)がポツネンと立っているのが不安に見えたのかもしれない。ただその"ラガッツォ"がイタリア語で話すと途端に彼女は饒舌になった。そのまましばらく見知らぬ者同士話し込んだという。おそらく片言でもイタリア語で話したことがきっかけになったのだろう。

アメリカ留学中はルームシェアした人がフランス語圏の人だったので、会話はフランス語でもやっていたらしい。ある日「君のフランス語は英語よりうまいねぇ」と褒められて、逆に英語は下手なのかとショックを受けていた。

いずれにしても語学が得意なのは大変羨ましい。

 

そんなお前はどうだと言われると英語すらかなり怪しい。趣味で洋書を読むが和訳を併読しないと細かいところがわからない。

大学時代に第二外国語としてやった中国語もお手上げ。漢文は得意だったので何とかなると思ったら、発音がさっぱりわからなかった。

何が得意なんだと言われれば日本語である。そんなことを書いていると「アホか」と殴られそうだ。ただ、出身は関西で今は関東にいて、普段は東京・神奈川言葉で話している。地元に帰れば関西弁だ。一時広島にもいたので、多少の広島弁ならできる。

「これでトライリンガルだ」と言うと人がバカにするだけなので言わない。しかしながら、言語を共有することで生まれる親近感は確かで、特に東京圏内のように他府県民出身者が大半を占める都市はわずかな接点、共通点に頼る傾向にあるように思える。今後外国人が増えればどうなるだろう。

登山に行くと、下界にはない登山者同士の親交がある。同好の士であると同時に登山の話題、「山語」を話す同族という意識が働くからと思われる。

 

話は変わるが、10年ほど前の冬に山形へスキーに行った。その時父親が山形で単身赴任をしていて、そこに遊びに行ったのだ。

夜は雪の積もる道を歩いて焼肉屋に行った。焼肉屋はチェーン店とは違って、普通の民家の座敷に七輪を置いたような店で、客も大半が地元民のようだった。給仕をしてくれるのは80近いのではないかと思われる腰の曲がった女性で、多少耳も遠いのか、客は声を張り上げて注文するというなんともすさまじい店である。

ただ、焼肉は絶品だった。山形牛に辛口でニンニクの効いたタレ。肉は魚のように鮮度を云々言われることは少ないものの、この店では本場の味と感じた(山形牛じゃなかったらどうしよう)。

隣の団体客が去って、少し静かになると件の女性が腰を曲げて空いた席の皿を引き上げに来た。私の側を通り過ぎる途中、彼女は私に向かって何事かの言葉を発した。訛りがきつくて一言も聞き取れなかったが、何となく言っていることは分かった。

「こんなばあさんを『お母さん、お母さん』と呼ぶなんてなぁ」

そう言って皺を寄せて笑って通り過ぎて行った。

1つの単語もわからない言葉を聞き取るのも、また新しい言語を習得したのと同じではないかなと思いながら私はビールを口に含んだ。

オクさん、カミさん

「最近は事務職希望の男の子もいるんだって」

人事担当者の雑談が耳に入ってきた。「草食系」なんて言葉が出てきた頃なのでそれほど古い話ではない。話していた人もさほど年配ではない。しかし、事務は女性の仕事という固着した意識があるらしく、その人は「世の中変わったものだ」と言うかのように呆れたような表情をしていた。

男女雇用機会均等法の施行から30年以上経っても基本的な社会の仕組みや意識は変わってないらしい。女性の営業は増えたが、最初から事務希望という男性を受け入れられない人が一定数いる以上は「均等」にはなってない。

 

一昔前、一部のフェミニストが「妻を奥様と呼ぶのは女性を家庭に閉じ込める考えから来ている」と主張していた。それでは何と呼べばいいのかと言えば、妻なら夫との対義語だから良いのだそうだ。

ただ、夫婦という言葉は夫が先に立つから許せない、と難しいことを言う。「嫁」という言葉も家に括り付けられているからよろしくないとのこと。

しかし、他人の妻を呼ぶのには何を使えば良いのだろう。やはり「奥様」くらいしかない。夫については「旦那さん」くらいしか語彙が見つからない。

 

ある女性の先輩は夫のことを「相方」と呼んでいた。なるほどこれなら男女共用できるし、対等な表現だ。ただ、そのことを他の人に話すと「これから漫才するみたい」という反応が大半で、今でもそう呼んでいるかは謎である。

韓国人の友人は「嫁」と、多くの日本人と同様の呼び方だった。

ちなみに私の父は外で「うちの”wife”が」と話していたら母から禁止令が出た。気持ち悪いとのこと。

 

刑事コロンボ』では何かと「うちのカミさんが」という台詞が出てくる。

もちろん和訳時にそうしたわけだが、「カミさん」という訳はなかなか秀逸だ。日本人は古来から怖くて畏れ多いものに「カミ」を付ける。カミナリやオオカミなどが典型で、人の力ではどうにもならないものである。

妻を「おカミさん」と呼んだルーツは詳しく知らないが、敬意と恐懼の念は感じられる表現ではある。

ただ、みんながみんな「カミさん」と呼ぶことはないだろう。「おカミ」も「お内儀」と書くとまた嫁と同じ論争になりそうだ。もちろん「内」に閉じ込めているということで。

 

思うに言葉は歴史の蓄積なのだから男女同権用語には無理がある。男女同権の考え方そのものが現代のものであり、その現代にあっても完全ではないのだから。

男と女は違う。問題は互いを否定することで自分の側を肯定しようとしないことだ。言葉にしないでも互いを「カミさん」として尊重することが必要ではないかと思う。

芝刈り

30年近く前にアメリカにいたころ住んでいたのはメゾネットタイプのアパートだった。壁を隔てて隣と接しているが、2階建てで基本的に独立している。玄関から廊下を通り抜けるとリビングで、その外には青々とした芝生が広がっていた。時々リスやケンタッキーの州鳥であるカージナル*1が姿を現し、夏には蛍が乱舞して部屋に入ってきたりした。

日本の少々の田舎よりも自然豊かで、それでいて世界一の経済大国である。純粋にアメリカは凄いという印象を受けていた。

庭に芝というのは見た目の良い反面、刈る手間が発生する。幼い私には無縁の話だが、近所で巨大な芝刈り機を操作する大人はしょっちゅう見かけたし、母親が「芝を刈らない家はズボラだと思われる」と話していた記憶がある。

 

しかし、ここからの話は芝刈りには一切関係ない。下手くそは芝ではなく地面を掘ってしまうゴルフの話をしようと思う。

今、ゴルフクラブがコートを入れる棚の奥に入っていて処遇に苦慮している。もともと私ではなく父が買ったもので、「もう使わないからやる」と言われて引き受けたものだ。それを持って1度だけコースに出たものの、それ以降やっておらず、棚の肥やしとなって10年近く経った。もう古いので捨てるにしても金はかかり、万が一断れないお誘いがあった場合を考えると捨てられずという状況が続いている。

中学と大学の一時期テニスをやっていたので球技に対して一定の理解はあると思う。ただはっきり言ってゴルフは嫌いなのだ。

 

まず金額が理不尽。

唯一のゴルフ体験の時のお値段は2万円プラス交通費。場所は千葉で、早朝に先輩に車で拾ってもらい、アクアラインを使ってアクセスした。社内のコンペだったのと、気の置けないメンバーだったので、右へ左へわちゃわちゃと歩き回りながら140打以上かかって完走(と言うのかな?)した。結果はダントツのべべた。終わったら風呂入って表彰式があって再び先輩に車で送ってもらった。

結果はともかくそれなりに球打ちは楽しい。テニスと違って静止している球を打つのは楽なのだが、ラケットとボールよりはるかにクラブも球も小さい。

ただ一定のフォームでまっすぐ打てばそれなりのスコアになることだけは理解した。下手くそは打つたびに身体の軸や打点がぶれるので左右のとんでもないところに飛んでいく。それなりに上手い人は安定したフォームで振っている。プロレベルになればクラブの選択からクラブごと、シチュエーションごとの振り方があるのだろうが、100打前後を目標とするサラリーマンゴルフ程度では関係はなさそうだ。

一方で素人ゴルフに体力は関係ない。とにかくまっすぐ飛ばせば、体力差は関係なくある程度練習した者がスコアを出せる。これがビジネスゴルフには良いところなのだ。ボルダリングとかマラソンみたいなスポーツを接待に使えば、実力差はすなわち体力や身体能力の差になって盛り上がりに欠けるだろう。

しかし1日球打ちをして3万円はなかろう。テニスやフットサルなら半日遊んで、打ち上げをしても1万円しない。登山なら2泊3日で山小屋泊まりができる。

キャディーさんへの心づけなんかが必要だったりして、出さないとどんな扱いを受けるのか知らないが、とにかく金がかかるなあと思うと他の遊びを選んでしまう。

 

嫌いな理由の2つ目は成金趣味的な感じ。

父親からゴルフ場へは「襟付きシャツ」行けと言われた。なぜかと言えば「紳士のスポーツ」だからだそうだ。

自分ではプレイしていないが、名門というゴルフ場にも2回行ったことがある。1回は大阪で、もう1回は伊豆だった。両方とも顧客の接待目的。伊豆のゴルフ場は海の見える高台にあり、2つあるコースはいずれも私の知らない有名な人が設計したそうで、プロの大会も行われている。

ゴルフ場にはホテルが併設してあり、ゴルフとホテルの受付が一体になっている。受付棟には黒光りする床、テーブル、上には巨大なシャンデリアが下がっている。ホテルはかなり古いらしく、漆喰の壁はところどころひび割れていて天井は異常に低い。平均身長160cm規格といったところ。

このホテル・ゴルフ場に2日間滞在して接待ゴルフコンペの下働きをした。別にこのゴルフ場に恨みはないのであくまで名前を書くのは控えるが、歴史のある黒い床に立つゴルファーは鹿鳴館に集う紳士淑女のように見えた。タキシードとドレスを来た日本人の鏡に映った姿は猿という風刺画、失礼な話が紳士淑女の猿真似と言おうか。

前夜祭はホテル内のパーティー会場で行い、2次会はすぐ横のフロアで行った。2次会はもくもくと煙が上がり、前ではカラオケという具合でそこに紳士は1人もいなかった。

 

低山ハイキングをしているとよくゴルフ場にぶち当たる。日本のゴルフ場は山や丘に築かれるので、登山に行くと途中どこかでゴルフ場のコースや看板を見かけ、「ここから入っちゃダメざんす」とばかりに金網が張られている。しかたがないのでゴルフ場を迂回する道を探さなくてはならない。

プレイヤーとしてゴルフ場のように芝生に池や林がある中を歩くのは気持ちが良い。しかも迷わないように道しるべも豊富にあり、休憩所も随時ある。アウトドアをやらない人も安心のハイキングコースになっている。

しかし、それは金網の中のいわば箱庭を散策しているようなものだ。の少ない山域から下山してきてぶち当たるゴルフ場は究極の不自然に感じられる。

しかもゴルフ場では異常に虫が少ない。プレイに邪魔な虫は薬で死滅させられている。日本で芝生というのも不自然だ。標高2000mくらいまでは膝上くらいの種々の草や低木が繁茂していなければならない。所詮は擬似自然、擬似ヨーロッパの景色を創り出しているだけなのだ。

登山をやる人間としてはゴルフ場が自然破壊であることとともに、「金網の中の散策とはねぇ」という思いを持ちながら脇を通り過ぎてしまう。

 

さんざんゴルフの悪口を書いてしまった。ただ、何かの拍子に始めなくてはならならくなるかもしれない。セールスによれば「何度も一緒に飲むより1回のゴルフの方が取引先と仲良くなれる」とのこと。「芝刈り」が上手いから取引相手として信用できるわけではないだろうに、日本のビジネスは人脈重視なのだから仕方がない。

「おじいさんは山へ芝刈りに。お父さんも山へ芝刈りに。ぼくも山へ芝刈りに」

事務所で隣に座っていった2歳下の通称「つうふう君」が突然おどけた調子で語りだした。明日、彼は親子3代で「芝刈り」へ行くらしい。

私もいざゴルフをやらざるを得ない時は山へやけに高コストの芝刈りに出かけるくらいの気分で臨むしかない。

*1:和名はショウジョウコウカンチョウ

お天気下駄

冬になると週末の天気予報を見る回数が増える。今週末は登山ができるだろうかと、特に計画していなくても見てしまうのだ。

なぜ冬かと言えば、冬は晴れ雨雪といった予報だけでなく風予報が重要で、風が強いとなればスッパリ諦めないと命にかかわる。「さて、そろそろ雪山に行きたいなあ」という時になかなか行けないことも多いので、逆に行ける時は行かなくてはソンではないかと思ってしまう。根が貧乏性なのだ。

 

日本気象協会のサイトtenki.jpを見ることが多い。レジャー天気という中に山ごとの天気と高度ごとの風予報が出ている。

ただし、天気は対象の山の麓にあたる町や村なので若干注意が必要だ。麓が晴れでも山頂付近には雲が発生している可能性がある。私の場合、その山の東と西、冬なら少し北の予報も見る。湿った空気が流れ込んでいれば周囲のどこかで雨や雪の予報になることが多い。上空の風が強ければ山頂付近だけ曇り、下が晴れていることが多く、逆に上空の風が弱ければ、上は晴れていて下だけ薄曇りというケースもある。

天気予報士ではないし、乏しい経験則なのであてにはならないが、冬になると天気予報を眺めては「この週末は登れるな」と感じる日に仕事があって悔しい思いをし、「これは登れない」となると少しホッとしたりする。

 

「冬の単独登山は危険です」と山岳雑誌や登山入門書には書かれていることが多い。事実、滑落の危険も遭難して発見されない可能性も冬の方が夏より断然高い。

ただ、単独で冬山へ向かう最大のメリットは好天を狙って登れることである。何人かで予定を合わせると、予報が急転しても突然行くとか止めるとかできない。その一方で行ってみたら予想外に良くなったり悪くなったりということもある。

4年目の12月に西穂高岳を目指した時は、まさに計画しちゃったから出かけたという具合だった。登山は土日を予定しており、土曜日に西穂山荘に宿泊し、翌日曜日に西穂高岳登頂を目指すというスタンダードプラン。その週は暇さえあればtenki.jpを眺めていたものの、土曜日は曇り時々雪、日曜日は曇りという予報だった。

「行っても無駄かも」と思い始めた木曜日あたりから予報が変わりだした。土曜日は相変わらずだが、日曜日は曇りのち晴れ。早朝に小屋を発つと曇りのまま終わるかもしれない。しかし、下山する時には少し展望が開ける可能性が出てきた。とにかく登れそうではある予報になってきた。


登山メンバーは3人。1人の友人が車を出してくれたので、途中まで電車で行き、駅前で拾ってもらう。車内で雑談しながら車は中央道を通って甲府、松本を目指す。松本を過ぎたあたりだろうか、雪が降り出した。北アルプスの山嶺を白雪が覆っている。路面には雪がなく車は快調に進むものの、この日にこれ以上降ってほしくはない。1人の計画ならこの日は止めただろうか、それとも行っただろうかという考えが去来しているうちに新穂高温泉に到着した。

新穂高ロープウェーを降りると小雪がちらついていた。空が曇っていれば小雪くらちらつくだろう。3人ともフードをかぶって歩き始める。上も下も白。霧は出てないし、トレースははっきりしているので迷う心配はない。風もほとんどない。今夜ドカッと大雪が降らなければ大丈夫だろう。

 

小屋に着いたら早速ビールと雑談。小屋は少し早いクリスマスムードに包まれている。外の空は相変わらず白いままで、「小屋泊まりでよかった」などと口々に言い合った。

日が傾く時間になると、窓を通して外が金色に輝いていることに気付いた。ナンダナンダ。外に出てみると突然西の空の雲が切れ、夕陽が穂高に突き抜けてきた。明日は朝から晴れるかもしれない。

夜、小屋にある天気予報を表示しているモニターが目に入った。高気圧を示す「高」マークは北アルプスを上空に向かっていた。

 f:id:yachanman:20190201191253j:plain


翌朝、頂上に向けて夜明けの少し前に出発。

その日の夜明けはいつもと違った。まるで瓶に詰めたように周囲を取り巻く空気に一切の澱みや濁りが混じっていない。東の空は太陽の到来とともに黒から蒼、オレンジに変わり、西の空は桜色に染まり始めた。

小屋を出てすぐに日が蝶ヶ岳方面から顔を出した。光の筋が白い地面をなでるように走っていく。時折舞い上がる雪の粉にあたるときらきらと光をまき散らす。

3人の中で先頭を行く私は後から来る2人を待ちながらも、光の圧倒的な演舞を呆然と見ていた。

 

f:id:yachanman:20190201120031j:plain

西側の笠ヶ岳方面

 

 光の舞いはほんの20分ほどで終わる。その後はいつもさほど変わらない景色が広がるのだが、この日は違った。空に雲がない。ぐるり見渡しても一片の雲もない。この世から雲という物質が消えかのような群青の空の下にただ白い穂高岳が腰を下ろしていた。

「これだから雪山はやめられない」

後ろで友人の1人がそう呟いた。

f:id:yachanman:20190131160826j:plain

4年前12月に登った西穂高岳より前穂高岳方面

「勝負は下駄を履くまでわからない」と言うが天気もその日にならなければわからないことが多い。天気予報も万能ではないし、万能ではないから登山は面白いと言える。

下駄でも飛ばして週末の天気を占おうか。