クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

旅に最適の本を探す

旅行の準備で迷うのがお供の本である。

この夏は雲ノ平山行に笹本稜平『春を背負って』を持って行ったら失敗だった。映画版は立山周辺で撮影されたのでいいかなと思っていたのだが、頭に入ってこない。台詞がわざとらしく、浮ついたように見えるのだ。これは山というリアルな自然の中にいるからだろうか。

3年前にカナダへ行った時は重松清『流星ワゴン』を持参した。まあ暗い話でバンクーバーで独り取り残された時に読んでいると、心が沈んでしまい、思わず現地の本屋で本(当然、英語)を2冊も買ってしまった。

旅先で読んだ中でよかったのは、石田ゆうすけ『行かずに死ねるか!』。

確か八ヶ岳に行った時にテントの中で読んだ記憶がある。日本の山で世界一周の物語を読むのは隔絶された空間でいい。先に挙げた重松清『流星ワゴン』は、いじめ、妻の不倫とか、妙に日本的な家の悩みが多くて旅先向けではない。

日常と異なる空間では、普段と全く異なる本が向いている。

 

今まで最もよく読んだ本は夏目漱石吾輩は猫である』で、実は今も読んでいる。

漢文調で、ウィット、シニカル、ユーモア、教養のすべてが詰まった一作だ。何年か前に朝日新聞で再連載をしていたが、注釈なしで完全に読める人はいないだろう。アイスキュロスからデカルトまで、絢爛豪華な人物の蘊蓄もあって初めて読むことができる。

読むたびに「そういうことか!」と膝を叩きたくなるという意味では長旅に最適だ。問題は挫折すると分厚い本なのでひたすら邪魔になることだろうか。

挫折するリスクを考えると、いろいろな作家の書いた折詰みたいな短編集がいい。

この夏、雲ノ平山行で北村薫宮部みゆき選『名短編ここにあり』を読んだ。

半村良『となりの宇宙人』は落語みたいな話な一方、吉村昭『少女架刑』はズンと重い。捻挫して暇だったのもあるが、いろいろな作家が登場するので飽きずに読めた。

小説はたまにしか読まないが、短編集ならたまにはいい。

 

今週末、九州旅行に行く予定だが、今回は何を持っていこうか。

今年もぶらり九州温泉旅を計画中

クリスマスに九州旅行を計画している。

昨年は大分空港から別府観光と由布岳登山をした。寒波到来という時期に当たり、由布岳は雪の中での登頂。道路もカチカチに凍結して、何台もの車が立ち往生かもしくは路肩に激突、脱輪していた。

あれから1年。再び懲りずに行こうと思っている。

今回は趣向を変えて熊本空港から入る。熊本で一泊して、九重山に行って法華院温泉に浸かろうかと考えている。山中で鍋なんかもいい。下山は別府側に下り、再び温泉に入るのだ。

問題は冬なので荷物が増えること。最近は大荷物を担いでオリャオリャ運ぶのが辛い。体重が減った分、パワーもなくなったのだろうか。

そんな嘆きはともかく少しでも楽しむために、今週は体調万全で過ごしたい。

いつでも遊びに励め 人生には締切があるのだ 野田知佑

鋼のメンタルになるには

平日テレビも動画も見ないことが多いので、ついつい週末に余計なものを見てしまう。つい一昨日も相方が贔屓にしている芸人さんが「鋼のメンタルになるには」という問いに答えているのを見てしまった。

この手の話はありとあらゆる人が話したり、書いたりしている。

果たして他人の意見でどのくらいメンタルを強くできるのだろうか。

会社に鋼のメンタルを持つ人がいた。

上司に1時間立ちっぱなしで説教されてもケロッとしている。他人が見れば十分にパワハラのレベルなのに、当人は「今日は短かったな」とか言っている。説教をする方もされる方も時間の無駄だし生産性を低下させる行為であるのだが、とにかく鋼のメンタルだ。

その後、この人は鋼のメンタルで活躍したかというとそうではなく、後輩に非常に嫌われ社内で少々問題となった。どうやら他人に対して究極の鈍感だったようだ。

いくら鋼のメンタルでもあまり真似したくない実例である。

 

失敗や非難を恐れない、気にしないというのは鋼のメンタルに重要な要素のようだ。

坂口安吾に「鋼鉄製の青年」と呼ばれたのは大山康晴である。名人戦で時の塚田名人にやや不遜な態度で臨んで敗れたものの、新タイトルである九段を勝ち取り、その後も数々の記録を残した将棋界のレジェンドだ。

将棋界は完全実力主義となっている。この中では失ったものは実力で取り戻さなくてはならない。実力があればどんな非難も気にならないのがいいところだ。

しかし、これはあまり参考にならない。世の中の大半は実力者ではないからだ。

いろいろな人の意見を見た中で、私の結論は「こうあるべき」という考えを捨てることだ。

「鋼のメンタルになるには他人の批判を気にしてはならない」と考えると、他人の批判を気にしないことがあるべき姿となる。結果、その理想と現実のギャップが自分を苦しめることになる。元来、他人の批判を気にするのが普通なのだ。

何があっても動じないというのは理想だ。ただ、理想に近づけない自分を責めていてはさらにメンタルを傷付けてしまう。理想は現実を動かす原動力となるとともに精神的重圧となるのだ。

理想をある程度捨てること、今の自分は「こんなもん」と割り切ることが鋼といかずともアルミ製くらいの精神にする秘訣ではないかと思っている。

永遠のバックパッカーでいたい

社会人になって「登山が趣味で」と話すと、ほぼ例外なく「いいですねえ」と言われる。もちろん社交辞令も含めての話で額面通り受け取ることはできない。

ただ、そう言われるとやっててよかったなあと思うのも事実だ。休みの日は家で過ごすか、子どもの面倒を見るくらいという人も案外多くいる。そんな中で休みには山があるというのは精神面でもかなりいい。

ひところ、登山と言えば何かに挑戦していた時期がある。
少しでも上のグレードで、少しでも困難なところを。低山から高山へ、一般登山道からバリエーションルートへ。雪山に行ったり沢に登ったり。

大したレベルではないが、自分の可能性を広げることに夢中になった時期がある。

ただ、ここのところ本当にやりたいことを考えてみた。

本来、私は自分の荷物を全部背中に背負って旅に出たかった。衣食住すべてを1つのバックパックに入れ、今日着いたところが家となる。この世界を住処とする風来坊。これが私の理想だった。

その意味で私はクライマーや冒険家にはなれない。困難なことをするのは楽しいが、それだけを生きがいにはできないからだ。

 

私のしたいこと。それは永遠のバックパッカーだろう。

先祖は商家だという。それも富山の薬を扱う卸売業者だったらしい。富山散薬は置き薬として有名で、ひょっとしたら先祖も草枕で全国を放浪していたかもしれない。

家に囚われず、自分が生きていることを自分だけが知る。そういうことが難しい時代に私たちは生きている。

発達障害とギフテッド

発達障害の子どもが小学生で10.5%という記事が出ていた。

これを多いとみるか、少ないと見るかは人それぞれだ。障害と言っても目に見えないので、適当なところでラインを引いているだけで、ラインの位置が変われば割合も変化する。障害と言うより「傾向」と呼んだ方がいい気もする。

それにしてもこの結果を見ると昔の学校は乱暴だったように思える。特別支援学級にいたのは学年に1人いるかどうか。私の小学校では800人くらいの中で3人ほどだった。

10.5%だとすると85人くらいいるわけだから、80人以上が隠れていたことになるし、私もその1人だったかもしれない。

相方の勤めるフリースクールには知的に高い子、少し遅れている子、落ち着きのない子などいろいろ来るらしい。その中で時折「うちの子はギフテッドなんです」という親がいるそうだ。

ギフテッドとは「授かった」ということだ。神から特別な才能を授かりし子。一語で言えば天賦ということになる。

定量的にはIQ130以上を指すが、知的に高すぎるので周囲と馴染めない子も多く、アメリカではそういう子のための学校もある。

本の学校は誰も取り残さない方針なので、ギフテッドにとっては力も発揮できず居心地の悪いのをやり過ごすしかない。そんな状況もあって最近では孫正義がギフテッドのための学校を創ったことが知られている。

 

相方によると、親がギフテッドを申告した子を見ると知的に高い面もあるものの、多くは「普通」の領域を出ない。それでいて落ち着きがなかったり、コミュニケーションが苦手だったりと、発達障害の要素を持っているケースが多い。能力のバラつきが大きく、総合すれば普通なのだ。

親の願望としては「優れた子であってほしい、さもなくば普通でいてほしい」と望むから発達障害ではなくてギフテッドと申告するのだろう。

しかし、この願望に見え隠れするのは「発達障害は無能、ギフテッドなら有能。普通でないならせめて有能な方に」という極端な整理だ。「個性を伸ばそう。特技を伸ばそう」と言っている一方で、「わが子は決して発達障害ではない」という潜在的発達障害への偏見が見え隠れしている。

 

相方はギフテッドを主張する親が来るとこう返すらしい。

「子どもはみんなギフテッド(授かりもの)ですからね」

世界レベルのアスリートとは

山野井泰史さんの映画が出るというので楽しみにしていたら、今週で終わりだという。油断していたらいつの間にか始まっていた。

仕方ないので平日に半休でも取ってこっそりと行こうかと考えていると、部署でコロナ感染者が出て休めなくなってしまった。無念である。DVDか何かが出るまで気長に待つしかない。

まあ、山野井さんについては著書も持っているし、講演も聞いたことがある。ドキュメンタリー映画というが、過去の映像が多いし映画館で見る必要もないだろう。今は「酸っぱい葡萄」の話のように自分を慰めている。

蛇足ながら山野井泰史さんについて書くと、日本屈指のソロクライマーである。

登山用語で言う「ソロ」というのは文字通り独りで、一般登山ルートにいるだけで独りではなくなってしまう。後から後から「こんちわ~」と来てしまうからだ。その意味でソロになるにはバリエーションルートと呼ばれる難しいルートを場合によってはロープ確保なし(これをフリーソロと呼ぶ)で登ることもある。
危険度が高いわけなので、そもそも実行する人が少ない。

そのソロクライミング8000m峰で行っていたのが山野井泰史さんで、8000m峰のバリエーションルート、単独登攀を行った世界で4人目の人物である。

スポーツ界だとマラソン瀬古利彦、昨日バンダム級で4団体統一した井上尚弥くらいと考えていいだろう。

 

世界レベルのアスリートを評価するのは難しい。

例えば王貞治は世界一の打者かと訊かれれば、日本人は'YES'と言い、アメリカ人は'NO'と言うだろう。活躍したフィールドが違うからだ。あるいはイチローならどうかとなれば、ホームランに重きを置く人は認めない。マラドーナはどうかとなると引退後の素行まで問題視される可能性もある。

陸上競技はもう少しわかりやすい。世界記録を持っていれば確実に世界一だからだ。ウサイン・ボルトは間違いなく世界一の短距離ランナーである。記録は有無を言わせない説得力を持っている。

 

それでいくと登山は自然という不確実性の多いフィールドで、審判なしで行うのだから、何をもってしても世界レベルと言いにくい。しかも現在はエベレストに一般人が登れる時代なのだ。さらにルートの難度も行った人しかわからない。

ただ、登山は命が懸かるという面では他のスポーツとは大いに違う。安易な挑戦ができない以上、「偽物」はなかなか立ち入れない世界なのだ。その意味で山野井さんが「本物」であることを疑う登山者はいない。

う~む。それにしてもつくづく惜しいことをした。

英語力と思考力の関係

最近、相方が英語の勉強を再開した。英検を受けるのだという。私も英語はやらないとなあと感じている。

英語をやる理由は、仕事で少々必要なことと、いろいろ調べ物をするのに、英語の資料の方が充実しているからだ。Wikipediaなんて英語と日本語でボリュームに相当の隔たりがあるケースがある。

日々、日本語でブログを打っていてナンだけど、英語はできないよりできた方がいい。

このところ英語の早期教育が百花繚乱の状況である。

しかし、藤原正彦さんは英語の早期教育に断固反対だそうだ。若かりし頃にアメリカやイギリスで研究を行った数学者が、教育の基本は一にも二にも国語だと言う。やはり父親が作家・新田次郎ということで、日本語への想いはひとかどではないのだろうか。

相方に言わせると英語教育を重視するあまりに日本語を疎かにする親が多いようだ。英語ができれば日本語ができなくても生きてゆけると考えている。ただ、思考の固まらないうちから両方を始めると、他にも悪影響がみられるという。

ほとんどの日本人が日本語で考えて生活している。それが英語と日本語の両方を一度に覚えようとすると、思考のツールとなる言葉が半分になってしまい、算数も社会も理解力が半分になるようだ。

 

私も言語と理解力について考えることがある。

後輩に文章を書かせると、主語・述語も接続詞も合わない文を作ってくる。これが単に作文の得手不得手ならいい。慣れればできるようになる。

ところが、よくよく訊いてみると書くべき内容そのものを理解していないことが多い。本来、文章化するプロセスで自分の無理解に気が付く。ところが自分で作った文が「おかしい」と気づく読解力もないので、理解していないことも理解できないのだ。

こうなると思考力の問題で、英語とか日本語以前の話となってしまう。

 

私は英語で考えようと日本語で考えようとどちらでもいいと思っている。

語学を趣味としている弟は英語で考えて英語で論文を書く方が効率的なんだとか。その意味では英語の早期教育も悪くはない。

しかし、いずれにせよ言語力を鍛えなくては思考もついていかないことを肝に銘じておくべきだろう。