クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

遊びをせんとや

アメリカ人ってのは、遊びの天才じゃぁなぁ」

広島にいた時、取引先の社長がそんなことを言っていた。彼は従業員10人くらいの会社の社長だ。奥さんが「肝っ玉かあちゃん」という感じの人で役職は専務。業務の大半はこの専務が行っている。社長はというと商品を自ら配送したりと、通常なら外部に委託するか下っ端にでもやらせそうな仕事をしている。

 

その社長から夏のある日、商店街主催の宮島キャンプに誘われて、担当セールスである先輩と待ち合わせの宮島対岸の港に向かった。私は当時24歳で見知らぬ土地で休日は車もないので暇ときていた。ちょうど良い日差しで海が青く見えた。

港に着くと背が低く、痩せた社長が顔をくちゃくちゃにした満面の笑みで迎えてくれた。失礼な話が陽気なサルのようなオヤジなのだ。

「宮島までどうやって行くんですか?」と私が訊くと、社長は「これで行くんじゃぁ、これで!」と言った。

中小企業とはいえさすがは社長だ。自家用ボートを持っている。われわれを荷物とともにボートに乗せると社長はエンジンを始動した。

私は先輩に「社長の言うことが半分もわかりません」とこっそり話しかけると、先輩は「俺なんか1割もわからないよー」と返ってきた。社長はあくまで陽気にハンドルを握り、ボートを出発させた。

 

ボートで宮島へと言ってもただ宮島に行くわけではない。そのあたりは社長なのだ。途中で社長夫人である専務と娘を乗せて、総勢5人になった。5人になったところで、ボートの後部に乗せていた巨大な浮き輪に乗れと言う。

浮き輪と言ってもドーナッツ型のあれではなく、バナナボートくらいの巨大なもので、ヘモグロビンみたいな形の黄色い物体だ。「若いの!お前から行けや!」と言われた。多分、この社長は私の名前を覚えていない。覚える気もないだろう。

この巨大浮き輪の遊び方はプレーヤーが浮き輪に乗り、ボートで浮き輪をロープ伝いに引っ張る。プレーヤーは浮き輪に付いている取っ手をつかんで落ちないようにするのだが、ただ乗っていればいいというわけではない。引っ張る方はボートを直進させるわけではなく、プレーヤーを振り落とそうとボートを右へ左へ旋回する。ボートを旋回すると浮き輪も右へ左に振り回されるのだが、裏返らないように身体の重心を傾けて浮き輪をコントロールする必要があるのだ。

一番手に指名されてそんなことは知らない私は死んでも取っ手を離さない所存で浮き輪に乗りエントリーした。

ボートが走り始める。意外と腕力が要る。ただ、当時は日常的に現場工事なんかをやっていたので多少の自信があった。ボートが右へ旋回する。

「やや、振り落とす気だな」

意地でも落ちまいと力がこもる。しかし、浮き輪を乗りこなすコツのわからない私はあっけなく裏返しになり、裏返しになった浮き輪にしがみついてしばらく引きずられた。身体が半分水中にいる状態で引っ張られるのは、すさまじく痛い。まるで縛り付けられて馬に引きずらせる中世の拷問みたいなものだ。最後は海パンが脱げてしまい、そこで諦めて手を放した。ライフジャケットを着けているので溺れることはない。

ボートで回収されるまで、ぷかりぷかりと青い海に浮かびながら、なんとか海パンを履いた。私の次に先輩がやったが、あえなく吹っ飛ばされてしまった。その次の社長令嬢のお姉さん。さすがに幼少から遊び慣れている。親父は振り落とそうとボートを右へ左へ操作するが、ついに落ちず。最後に社長夫人・肝っ玉かあちゃんまでやるのには驚いた。

 

社長は「がははは」と笑いながら言った、

アメリカ人ってのは、遊びの天才じゃぁなぁ!こんなもんは日本人じゃぁ考えられんのじゃけぇのぉ」

この浮き輪遊びをアメリカ人が考えたかどうかはわからないが、日本人が考えられないということには大いに肯んじるところだ。

 

山崎豊子の『華麗なる一族』を読んでいて妙に感心したのは芸者遊びの描写。官庁から派遣された銀行調査官を接待することで指摘をかいくぐる。面白かったのは、三味線に合わせて芸者たちが川を裾を捲って渡る真似をするというもの。川は徐々に深くなり、捲る裾も徐々に高くなる。謹直な調査官の目の色が変わる様子が目に浮かぶ。

いくら高学歴で、高級スーツで身を包んでも、「遊び」はあまりに低俗だ。

それに比べると、アメリカ人というのは大人が真剣に遊びを考えている気がする。フロリダにあるディズニーワールドなどは小さな遊びのための都市を築いたようなものだ。アメリカは国土が広いとかいう以前に遊びに対する姿勢の違いを感じさせられる。

今日本のテーマパークは東京ディズニーランド・シーとUSJ以外は軒並み低調だというが、そもそもアメリカと日本の遊びの実力のような気がする。企業とか国家とか人民のためというお題目を超えて、「大人が本気出して作った遊び場」なのだ。

 

「遊びをせんとや生まれけむ」は平安末期に後白河法皇が編纂したという当時の流行歌集『梁塵秘抄』の一部だ。これは「子どもが遊びするために生まれてきたのだろうか」ということらしいが、大人だって遊ぶために生まれてきているに違いない。