クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

科挙的社会

宮崎市定科挙』を何気なく手に取った。パラパラ読みなので読解しているか自信はないのだが、学術的歴史が久しぶりに面白かった。


科挙は言わずと知れた中国の官員登用試験である。歴史は隋の文帝から始まり、清代末期まで続く。今まで知らなかったが、この試験には厳密な公平性を保つ努力がなされていたらしい。試験は四書五経を中心とした儒学に関する筆記試験で、誰が書いた解答かわからないように回答を別の係員が転記してから採点を行っていたという。

あの中国全土から人が集まるのだから受験者の準備も熾烈を極める。生まれる前から優秀な子になれと願をかけ、3歳から漢字を覚えさせる。毎年受験を繰り返すうちにいつの間にか年を取っていたということも珍しくない。

試験は厳正を極めていて、不正を犯すと流刑などの重罰が下された。それでも官吏にありつくために、受験者は必死に網をかいくぐる方法を考える。下着をカンニングペーパーに利用する、替え玉受験をするなど、今も昔も変わらないじゃないかと思える試行錯誤を繰り返している。

 

隋の時代は日本で言えば蘇我氏が覇権を握ろうとしていた時代だ。日本で蘇我氏物部氏が氏族闘争を繰り広げていたころに中国では全国規模での人材登用が行われていたのである。日本では科挙を大きくスケールダウンさせた聖徳太子の冠位十二階が制定されるが、その後は藤原氏平氏、源氏といった氏族を中心とした中世に突入していく。ヨーロッパも中世は一部の特権を持つ王侯貴族の社会である。

これらの特権階級の独占状態が崩壊するのが、近世であり近代であるというのが一般的な解釈なのだが、中国ではなんと西暦600年ごろには民間人の立身出世の方法が確立していた。

中国の「皇帝」はいわば最高権力者であって、日本の天皇のようにある特定の氏族の長を指す呼称ではない。したがって、皇帝となった人物が旧勢力の逆襲を受けないためには子飼いの官僚組織を作り上げなくてはならなかった。官僚たちは旧勢力のしがらみを受けない人物の方がよいわけで、皇帝が科挙の最終試験である「殿試」に立ち会うことを見てもその意気込みがわかる。

 

この本ではあくまで歴史学的な「科挙」のシステムや歴史を記述しているのだが、私は最後の結びを読んで、陳腐な言い方だが、驚愕した。

そこには科挙と日本の受験と企業への就職をリンクさせた考察が記述されていた。

日本の大学受験について何かと問題になるのは、入りにくく出やすいことである。これはアメリカなどのシステムと大きく異なる。受験時に頑張れば、とにかく大概は卒業でき、卒業できれば大学名が一つの肩書きになる。企業への入社も同じである。入りさえすれば定年までの雇用が保証され、退職金と年金によって老後まで面倒を見てもらえる。

宮崎市定はこの方式を「科挙」と同じだという。科挙も合格して官吏になることができればあとは安泰だ。だからこそ、生まれる前から子どもに願をかけ、3歳から英才教育を始める。これも日本の早期教育と共通するものを感じる。

早期教育が悪いわけではない。しかし、科挙現代日本の受験も基本は暗記力中心の缶詰方式だ。しかも、科挙では四書五経、日本の受験も実用に適するか怪しい文学から微分までの内容を子供たちに選択の余地を与えずに強要している。科挙や受験で失敗すると、努力は水泡に帰してしまう。宮崎市定はそれは子供の可能性を奪う行為だと非難している。


科挙は膨大な人口の中から能力の高い人間を抽出するという意味で、そして文治政治を推進する中で世界の先端を行くシステムだった。しかし、そのシステムは1400年もの間続き、欧米列強に蹂躙された清末期にようやく中止された。そのシステムに倣うような日本の受験、入社試験体制は時代遅れと言って良い。

宮崎市定は終身雇用を「封建的」と言い切っている。そして終身雇用のメリットを認めつつも改善しなければ社会の発展はないとし、その改善は実利に聡い実業界に求めるとしている。


たった最後の数ページだが、そこには宮崎市定の慧眼が示されていた。

そして私は思わずこの文章がいつ書かれたものかと思い、巻末をめくった。

「第一刷 1963年」

なんと高度経済成長の真っ只中。日本が世界第二位の経済大国に駆け上がろうとした時代、誰もが日本企業のあり方に疑問を持たなかった時代に書かれたものたった。

それからなんと55年経った。今の日本企業はさほど変わったように思えない。

この状況を宮崎市定はどう思うだろう。科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))

科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))