試験を受けた。
試験と言ってもペーパーではなく面接。出世欲もそんなに強くないので今はどうでもいいかと。
それはともかく世間でもお受験のシーズンももう終わりである。
いいとこ:世の中にすんごい人がいることを知ることができる。
世の中平等とか言いながら、すごい人に会うことはかなりマレ。なぜかと言えば、人生の岐路の中でどんどん自分と同じレベルの箱に入っていくからだ。
灘中学とか開成中学とか行って東大に入る人と出会うにはその分岐に差し掛かる前、つまり小学生の時しかない。
私は中学受験をした。
頭悪いので、灘中学の入試問題なんてチンプンカンプンなのだが、学習塾ではそんなチンプンカンプンをサクサク解く人間がいるのは驚異的だった。この時、世の中にはミルフィーユ状に何層もの階層があることを知った。
中にはジュースの自販機で冷たい物を買おうとして、温かいコーヒーのボタンを押してしまっただけでオイオイ泣くような幼稚な輩もいたが、テストともなれば超人的能力を発揮していた。
ところがその後の人生で、驚くほどの能力を持った人はそう現れない。彼らはもはやミルフィーユの別階層に振り分けられてしまっているのだ。
J.Fケネディが言うように"Life is unfair."ということは幼い時から知っていてもいいだろう。
悪いところ:答えを探す癖がつく。
「試験」とは答えを探す作業だ。そして答えを採点する人や機械がある。
受験は大量の回答に得点を付ける必要があるので、答えは1つである方がいい。中学受験も複数回答や論述問題などはまれで、あてずっぽでも正解だったらいいというところがある。
小学生の頃から試験を繰り返すと、「答えはある」という思考が身についてしまう。
ところが現実は最先端の研究になればなるほど答えはない。それが面白いのだが、「答えはある」という神話を刷り込まれる危険性が高い。
何も中学受験に限ったことではなく、これは日本の教育全体の弊害かもしれない。
日本人は禅問答のような曖昧で抽象的な問いを好む民族なのに、答えから逆算して思考する人が多いような気がする。そして満点の「答え」を出すことを強制する。
人によっては答えがないと怒り出すか、探求そのものを諦めて、他人に訊こうとする。
答えのある世界に慣れてしまうと答えがない世界に挑むという気概を失ってしまう可能性がある。
以上、つらつら思った中学入試。
やるべきかやらぬべきかも同じく答えはない。