クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

北海道自転車放浪記-9

自転車旅に「放浪記」というタイトルは少しそぐわない。自転車族はどこかを目指して走っているので、あまり無目的に「放浪」している人はいない。目指すのは大概が端っこで岬などが目的地になり、自転車を今日も明日も東へ西へ、北へ南へ走らせることになる。

では、なぜ「放浪記」とタイトルを付けたかだが、私が出会った自転車人は定まることなく人生を放浪しているように感じたからだ。自転車にテントを積んで無料の宿泊施設を渡り歩けば1日2000円くらいで生活できる。年間にして73万円。年収が100万円と聞けば一大事のように聞こえるが、野宿生活なら十分生きていける。年収500万円をもらうのと引き換えに1日8時間、年間200日以上を差し出すことに意味はあるのだろうか。

この時の私は大学の4回生。次年には就職し人生の方向が定まると感じていた。その一方で人生を放浪する旅人たちとの交流はささやかな私の人生観を揺さぶる波を起こしていた。

 

襟裳岬からは海岸線を苫小牧に向かい、そこからフェリーで福井県敦賀港を経て帰宅するつもりだった。

そして最後の夜もキャンプにするつもりで無料のキャンプ場にテントを張った。テントは父親自慢のダンロップテント。なんと結納返しに祖父からもらったといういわくつきの品で、購入から20年以上を経過してもはやボロボロになっていた。最も困るのは雨で雪山を想定したこのテントのフライシートは全体の半分しかカバーしない。旭川の近くのキャンプ場でテント張った時には観測史上初という大雨に見舞われ、テントの天井から水しぶきが降ってきた。しかしそんな日ももう最後である。

テント場は湖畔であまり整備はされておらず、人は全くいなかった。最後の晩は独りかと考えていると、原付に乗った人が現れた。背が高く、色黒で最初は男女の区別もつかなかったがどうやら女性だ。

「小笠原から来ました」

確かに彼女が跨ってきたミニカブのナンバープレートには「小笠原村」と書いてあった。「どうやって来たんですか?」と尋ねると

「父島からフェリーで東京に行って、ひたすら一般道で青森に行って、フェリーで北海道に渡りました」

小笠原村の人など初めて見た。というか小笠原村って村なんだな。スーパーで買った鳥の砂肝を勧めると「砂肝ってめったに食べられないので嬉しいです」と言う。

「小笠原では食材がどれも古いんです。全部本土から届くから賞味期限なんて2ヶ月か3ヶ月過ぎているのが当たり前で」

日本もいろいろだなぁと思う。北海道のようにあり余る土地に食物が育つ地域があるかと思うと、生活物資や食品の多くを輸入(?)に頼らなくてはならない島がある。

自分が小笠原出身だったらと夢想してみる。周りにはきっと島からめったに出ない人もいるだろう。若者は都会に憧れるだろう。自分も島の景色に見飽きて、原付を駆って北海道まで来るだろうか。きっと行くんだろうな。

 

最後の日は苫小牧でホッキ貝丼を食べ、ビールを買って夕方のフェリーに乗った。

曇り空の甲板で海を眺めながらビールを飲む。北海道の大地に憧れて北へ向かったが、思い出すのは出会った人ばかりだ。北海道自転車旅の収穫はウニを食べたことでも知床の景色を堪能したことでもなかった。広い大地で日本全国から集まるさまざまな人に出会い、その人生に触れたことだった。

8月がもう終わろうとしていた。