クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

忘れ物の源泉

小学生の頃だっただろうか。母親がこんな逸話を話してくれた。

30代である男性が若年性認知症と診断された。最初はちょっと物忘れが激しいというくらいの自覚症状だったが、たちまち症状はひどくなり、少し前の出来事もたちどころに忘れるようになった。もはやこれまでのように会社員として働くことはできないだろう。周囲がそう考えのも無理はなかった。

しかし、彼は不屈の精神で会社員を続ける。すぐに忘れてしまうのを防止するため、起きた出来事、やるべきことは徹底的にメモをすることで、自分の弱点を克服し、立派に職務を全うしているという。

 これを聞いた時、まだ幼い私は思わず呻ってしまった。自分は特に何らかの病魔に侵されているわけでもないのに、よく忘れ物をする。これでもかなり慎重な性格なので、学校の準備は前日に済ませ、当日にもう一度チェックしてから家を出る。それでも忘れる。

忘れるのはたいていイレギュラーな持ち物で、先生に「明日は〇〇を持ってくること」と言われてメモをするものの、メモを見ないで準備をして忘れる。あるいはメモを見た直後に「あー、これも忘れちゃいけない」と考えているうちにせっかく見たメモの内容を忘れる。自分はアホなのか、それとも何らかの病気なのかと疑ってしまう。これでも根はマジメなので、忘れ物をしないための最大限の努力をしているつもりなのに、その努力をフイにしてしまうのもまた自分なのだ。

 

最近、角幡唯介『探検家の事情』が文庫になっていたので思わず買ってしまった。「忘れ物列伝」という章が面白い。角幡さんは幼少時代からランドセルを忘れて学校へ向かうような少年だったという話から、探検時の忘れ物を列挙している。

私も沢登りに行って河原にメガネをケースごと忘れたことがあるので他人のことは言えない。4年ほど前に笛吹川の遡行へ出かけ、入渓ポイントで沢足袋を履いてパッキングをし直したところ、石の上に置いたメガネケースを見事に忘れた。

1日の行動を終え、テントの中でコンタクトレンズを外そうとしてようやくその事実に気が付いた。より間抜けなのはこの時点でもどこにメガネを置いたのかもわかってなかった。もしかしたら家の忘れたのかもと考えたのだ。最終的に真相が明らかになったのは家に帰ってからである。

角幡さんがポリタンクやらハリスやらを山中に忘れてきたと聞くと、いかにわれわれが山の燃えないゴミを増やしてきたかがわかると同時に、忘れ物の同士を見つけたようでホッとする。特に角幡さんのような危険度の高い探検行為をしている人でもこんなことをするんだという事実を知ると、「命のかかっている人もミスをするもんだなあ」と妙に安心する。忘れ物が「怠慢」や「気の緩み」、「怠惰」の結果だとすると、自尊心がやや傷つくが、人類普遍の行為だと言ってしまえば正当化できてしまうという誠に安直な考えである。

 この章のオチは角幡さんの探検史上最大の「忘れ物」についてなのだが、ここで書くのは控えたい。

 

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多分このあたりで忘れたであろう入渓地

過去からいろいろ忘れ物をしている。致命的なものはないものの、自分でアホだなあと感じるのは「両手逆さ事件」である。

ある日、会社へ出かけるときにゴミを捨ててから行くことにした。右手にゴミ袋を持ち、左手には鞄に入りきらないものを入れた袋を持った。袋は会社の備品でCDやDVDのPC用外付けリーダーが入っている。朝の気だるい空気と寝起きの頭でぼんやりしながら電車に乗り、会社へ出社すると、片手にはまだゴミ袋を持っていた。自分でも何が起きたかわからない。

以前何かで読んだ本で、航空機操縦での左右間違いというのがあった。民間航空機のコックピットの扉には中から掛ける鍵があり、乗客やテロリストなどの侵入を防ぐようになっている。鍵は操縦を行う機長か副機長が掛けるので、操縦桿などの機材が並ぶ前方に設置されているわけなのだが、どういうわけか昔の航空機では着陸時の使用するエンジン逆噴射ボタンの隣にあった。2つ並ぶボタンの左右を間違えるのは私のようなうっかり者も訓練を受けた操縦士も変わることはなく、鍵の操作をするつもりが、逆噴射をさせて危うく墜落しそうになるという事態が頻発したらしい(今は変更されている)。

起こりうる間違いは、いつか必ず起きる。これはどんなに優秀な人も、そうでない人も同じらしい。

 

登山は危険なスポーツだ。したがって行動中は気を緩めるわけにはいかない。

普段うっかり者の私も緊張感が高まるし、持ち物も慎重に見極めるようになる。その甲斐あって登山中にあまり危険な目に今のところ遭ったことはない。ところが、それほど緊張感を要しないルートで天気も良好となると、逆に重要な忘れ物をしたりする。

8年ほど前、会社の同僚と南アルプス鳳凰三山に行った。9月初めの絶好の登山日和で、1日目は甲府から夜叉神峠までバスに乗り、そこから南御室小屋までを歩いた。南御室はテント泊の人々で大盛況となっていて、われわれはテントの周囲を散策したり、夜は星空を見上げたりと、存分に山を堪能した。

2日目も朝から快晴で三山を縦走した。この山は縦走するにはなだらかで、危険箇所も少ない。連れは初心者だったものの、体力は十分あり、楽しみながら最後の地蔵岳に到り、そこから滝を眺めつつ青木鉱泉に降り立った。

何の不満もない山旅。そこに異変があったのは登山口だった。バス停に誰もいない。

「稜線にはあれだけ人がいたのになぜだ」

 少し嫌な予感がする。バスの時刻表を見る。うーむ。

「バスならないよ」

背後を通り過ぎたおじさんが言う。

「へっ?」

よくよく眺めてみる。時刻表の下には

「7月15日から8月31日までの土日祝日。8月10日から20日の毎日。9月の第2週、第3週の土日祝日運行」

おおよそこんな感じだった。そしてこの日は9月の第1週の日曜日で、ポッカリ空いていた穴に落ちたようなものだった。

この山行の忘れ物は帰りのバスであった。結果的には温泉に入って車で帰ろうとするお兄さんに話しかけたところ、駅まで送ってもらえることになり、最後まで滞りなく登山を楽しんだわけだ。

ただ、危険の少ない山の危険は登山口にあるかもしれない。これだけは肝に銘じている。

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地蔵岳オベリスク、この時は調子に乗って登ってみた



 「抜かりのない人」という言葉がある。「抜かり」は抜け、つまり忘れ物が少ない人と言える。しかし、日ごろ仕事をしていると、抜かりのないと見られる人は案外抜けがないくらいの仕事しかしていないことに気づく。特に同じ分野に長期間とどまっていれば、年間のスケジュールや仕事の難易度がわかるようになるので、自分の能力以上の仕事を受けなければ、必然的に抜かりはなくなる。

しかし、それを是としては組織も本人も進化しないのは自明であって、失敗は進化の証であると言える。というか私はそう信じて日々新たな忘れ物をしている。そう思わなければやってられないのだ。

"There's many a slip between the cup and the lip."

カップから唇までの短い間にもたくさんの間違いはある)

吾輩は猫である』にも登場する英語の諺。「まあ間違いはあるわな」と自分に言い聞かせている。