クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

わからない明日とわからない登山

角幡唯介『狩りの思考法』を読むと面白いことが書いてあった。

グリーンランドに住むエスキモーたちはしばしば、「わからない」ということを意味する「ナルホイヤ」という言葉を多用するらしい。「明日の天気は?」と訊けば「ナルホイヤ」だし、「今、橇を作っているのか?」と訊いても「ナルホイヤ」なのだ。

 

 

ここでやや脈絡もなく思い出したのが将棋の棋士のインタビューで、今の藤井聡太七冠もしょっちゅう「わからなかったですけど」と言う。

中でもすごかったのは、20年ほど前に大躍進を見せた丸山忠久八段(当時)で、インタビューした記者に「わからない」を連発して往生させていた。

「この場面は良いと考えていたんですか?」

「いや~、わからなかったです」

「さすがにここでは勝ちを確信したのでは?」

「ちょっとは良くなったかなと。わからなかったですが」

一般人からすると、わからない人が指せるものかと思うところだが、わからない本人が局面を作っていくのが将棋というものらしい。

先日、笠ヶ岳に行った際、初日の天気予報は曇り時々晴れで、2日目は晴れ時々曇りだった。ところが行ってみると初日は曇り時々霧で時折晴れまたは雨。何とも複雑な天気だった。そして2日目は快晴。

これほど天気予報が発達しても明日はわからないのだ。

しかし、多くの人は天気予報を見て、かなり信じた状態で山へ赴く。少なくとも天気予報を見ないで荒天で突っ込めば「無謀」の誹りは免れない。逆に天気予報が外れて酷い目に遭う分には「仕方なかったね」となる。

わからない明日に進むのに、わからないままにしておけないのが現代人だと言える。

 

では、エスキモーや棋士が「わからない」を連発するのはなぜだろう。

角幡さんはエスキモーのナルホイヤをその場その場での判断、「現在」を重視する思考から来ているのだろうと推測する。刻一刻と変わる自然の中で生きるエスキモーたちにとって未来予測は意味をなさないものなのだ。

それは棋士にとっても同じで、もちろん予測を繰り返しながら局面は進むのだが、自分の予想手を相手が指さなければ、予測は無意味と化してしまう。だから、良くなったと感じても次の瞬間に奈落に落とされることなんかザラなのだ。

登山も自然を相手にする。自然は予想できないし、予想できないものこそ自然だと言える。そうすると、登山も予想できないものを予想して、やっぱり「わからない」となる行為なんじゃないかと思ったりする。