クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

皇居ランナー

金曜日の夜に皇居の周りを走ってみた。いわゆる皇居ランである。会社で着替え、スーツ姿の間を縫って外に出て、トコトコ皇居の堀に向かう。

堀の縁に近づくと、ここから皇居の周回コースと一目わかるくらいにランナーが走っていた。みんな鮮やか、シック、それぞれファッションを凝らした姿だ。私もトレラン風のウェアで固めてみたが、これが普段のランニングの格好だと浮いてしまうことは間違いない。ちなみに普段の格好というのは、ランニング大会の景品Tシャツとユニクロのランニングパンツに破けたキャップとかで、「夜のランニングなら暗くて見えないからいいだろう」と潔く開き直ったもので、まるで近所へゴミ出しに行くかのような間に合わせの姿である。

皇居ランナーにそんな人は皆無で、化繊のTシャツにランニング用の短パン、サポートタイツ。足元はしっかりとしたランニングシューズ。別に速くても遅くても走るための正装でなくてはならない。

 

走り始めると、なんだか普段と違う感じがする。普段は誰もいないところを黙々と自分の調子に合わせて走るだけなので、あまり無理はしないのが周りに走る人がいるということで、妙な緊張感でペースが速くなってしまった。

それにしても不思議な光景だ。皇居の周りは、なだらかで信号が少ないという以外、特段走っていて面白いわけではない。日中なら千鳥ヶ淵や皇居の門、国会議事堂なんかも見えるだろうが、夜は街灯も少なくて少し離れたビルが見えるばかりだ。暗くても警察官が多くて安心というくらいか。

なんでみんなそんなところをグルグル走っているのだろう。同じように走っている自分が言うのもなんだが、みんなお洒落に着こなしてそれぞれのペースでグルグル回っていた。

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角幡唯介さんはこの皇居ランナーや富士山に押し寄せる登山者を「身体性の欠如」という病にかかっていると書いていた。身体性の欠如は昔から言われている話で、スマートフォンが浸透し、常に指先一つで快、不快な音声・映像・文字情報を得られる現代はより深化していったと言える。しかし、このグルングルン回り続けるランナーを見ていると決してそれだけでない気がする。

どんな人たちが走っているのか私には正確にはわからない。ただ、多分皇居の周辺、丸の内か新橋かの会社員が多いのではないか。郊外に住み、日に1時間くらいかけて満員電車に揺られてガラス張りのオフィスに入り、日が暮れると帰り、夕食を食べ、時々同僚と酒を飲み、テレビを見て眠りに就くのだろう。今日という日が明日も続いて、明後日も続いて、週に2回の休みにちょっと外食して。

電車が事故で止まれば、たちまち混雑して、疲弊するものの、わずか数十分で元の通り動き出す。都会はメンテナンスフリーのソーラー電波時計のようにあくまで規則正しく動き続ける。

安定していて何の問題もない世界。みんな世界が円滑に運行することに寄与していて、自身も円滑に動いている。後ろから来た人を止めないように、駅の改札は潜り抜けなければならない。自分の身体でありながら、自分の速さ、自分の意思で動き続けることはできない。

都会とはそんなところなのだ。

 

皇居ランナーはそれぞれがそれぞれのペースで走っていた。私のように1km4分ペースで走るようなせかせかしたオロカ者はいない。走るという行為を行いながら、ほとんどの人が急がないのだ。歩くことの対比としての走るではなく、急がないために、他人に制御されないために、ただ「走る」ように見えた。

皇居ランナーは都会の歯車から一時的に離脱するために日々走り続けている。