クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

銀座の料亭の鯛の行方

週末は八百屋で鯛と鯖を買って、鯛は刺身と天ぷらに、鯖はしめ鯖にした。

魚を捌けると料理の幅が広がる、と自慢したいところだが、実際には身が骨に残ったり、皮に付いたりで上手くいかない。ただ、皮も骨も揚げてしまい、美味しくいただくようにしている。

昔、相方は銀座の料亭でバイトしていたことがある。

田舎から出てきた、煌びやかな世界を見たいという興味本位のバイトだったそうだが、いろいろな世界が垣間見れたらしい。

その中で、印象的だったのは鯛めしだったという。

なんのことだろう?

鯛めしは文字通り鯛の身の入った炊き込みご飯である。

しかし、捌いてみるとよくわかるのが、鯛は意外と小骨が多いことだ。理想は鯛まるまる一匹を飯の上に乗せて蒸し、蒸しあがった鯛を崩して食べることだが、そんなことをしたら小骨だらけの飯となってしまう。

その店では、遊郭のごとく「顔見せでございます」と鯛の頭と尾を付けた状態で客に見せ、一度引き上げてから鯛の身を飯に混ぜ込んで出していた。ところが、頭と尾は小骨だらけのところだし、目玉を混ぜ込むと気持ち悪いと言い始める可能性もある。

結局、身の小骨を抜いた部分だけを少量、混ぜ込んで客に出していたそうだ。

 

さて、頭と尾はどうなるのだろう。

それが料亭内の秘密となるのだが、取っておいて他の客への「顔見せ」に使いまわしていたらしい。

その話を聞いた時、私は「うーむ」と唸ってしまった。客の立場からすると、使いまわしの鯛を自分の食べる身を一緒にされたくないという気持ちがあるだろう。ただ、私としては頭と胴を別々に組み合わせて出された鯛たちが草葉の陰で泣いているのではないかと思うわけである。

確かに身だけにした鯛はもともと何の魚だったかわからない。それを「鯛です」と主張するには頭と尾がいるのはわかるけど、頭や骨も美味しいし、いいダシが出るのである。

魚を食うなら小骨もろとも食う覚悟がなくてはならんのだ、と主張して本日は終わりにしたい。