クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

走ることについて-5

スポーツには不思議な距離がある。

野球の投手と捕手の距離、塁間など不思議だ。投手の球は打者の眼が捉えるギリギリで投じられ、走者が盗塁を奪うか捕手が刺すかもギリギリに設定されている。グラウンドを「ダイヤモンド」と例えるのはなかなか秀逸な表現と言える。

テニスのコートもプロ・アマを問わずなかなか絶妙な大きさだ。プロは球足も速いが、それに追いつく脚力もある。アマチュア同士の試合では球足は遅いが、脚力もその分ないので試合は成立する。

それでは、42.195kmはどうだろうか。メートル法に慣れたわれわれには何とも中途半端な距離だ。しかし、フルマラソンの成否は2.195kmの扱いに掛っている言える。

 

2017年12月奈良マラソンに出場した。

エントリーはインターネットで先着順だが、受付開始とともに回線がパンクする。運よくエントリー画面に入れた者だけが出場権を手にすることができるという仕組みだ。地方都市とはいえ人気の大会である。運よくエントリーできた私は寒さに震えながらスタート位置についた。

奈良マラソンはスタートすると、まず奈良市街から西の大阪方面へ進み、途中でいったん南に下る。そして折り返すと再び奈良市街に戻り、奈良公園を通って南の天理市を目指す。都市マラソンの特徴は必ず折り返しが発生することだ。フルマラソンの距離を確保し、道路封鎖や警備の距離を縮めるには折り返しを設けるしかない。「いわて銀河チャレンジマラソン」のように折り返しがほぼない(1カ所、数百メートルのみ)大会はレア中のレアだ。陸連公認のこの大会は、私にとって記録を意識する大会と言えた。

 

半年前に100kmを走ったせいか完全に距離感が狂っていた。42.195kmなんて100kmの半分以下だ。目標タイムは3時間30分だが、逆に言えばその程度の時間を我慢すればいいのである。スタート前はなめていたとしか言いようがない。

スタートするやどんどん周り抜き放った。「いわて銀河」は1200名程度で、奈良マラソンは1万人を超える。抜くときも10人、20人以上を団体で抜くことになる。速いランナーが先にスタートできるように、選手のゼッケンにはAから順の区分が記載されていた。私はCだったが、気が付くと周りはAとかBのゼッケンの人しかない。私が過少申告したのか、周りが過大申告したのか。

 

都市マラソンはさながら祭りのような様相を呈する。店先で歌手は歌い、せんと君はオープンカーを乗り回し、大声で騒いでいるおばさんがいると思ったら有森裕子だった。この狂騒に乗せられてペースが上がったがそれは後に後悔することになる。

 

街中を抜けると田園風景と遠くに生駒や葛城の山並みが見える。冬の澄んだ青空を雑煮の餅のような雲が流れる。街中の狂騒は後ろに消えた。

道は幹線道路を逸れ、丘の方に入っていく。丘を登る決意を固めていると、坂道の入口に異様な音を聞いた。

一人の年齢不詳の男が音響機器を背に声を上げている。近づくと大音量の音楽をかけ、男はひたすらランナーを鼓舞していた。曲はRCサクセッションの「雨あがりの夜空に」だ。男が何を叫んでいたかは不明だが、この曲は耳に残った。

 

学生時代に運動部に所属した人は意外とスポーツを続けない。アスリートにしても引退しても鍛錬を続ける人はまれだ。それに反して30代前後に始めた人はその後長く続ける。おそらく日本の部活の「修行」といった要素が長続きさせない要因だろう。部活を始めたきっかけは本人であっても卒業するまで続けるのは途中で「修業」をやめてはないという暗黙の掟によるところが大きい。引退すれば掟から解放されるのだから、あえて苦行に戻らないというのもわかる。

私は中学2年でテニス部を離脱した根性なしである。練習そのものより「声を出せ」「集合の時は走れ」などとやたらに怒鳴られるのが嫌だった。

自分の意思で行う苦行は苦行にあたらない。それが大人になってわかった私にとってのささやかな真実である。

 

コースは丘を登り、下り、天理市役所で折り返す。復路は再び丘を登り返す。折り返しのあたりで足にブレーキがかかった。止まらないのが精いっぱいで、速度を調節するような余裕はもうない。毎度の前半飛ばし過ぎに対するツケが回ってきた。

 このあたりからあまり記憶がない。気を失っているわけではなく走るのに必死だ。

「どうしたんだい Hey Hey BABY!」

さっき聞いた歌が頭の中で鳴り響く。全身は元気なのに足が動かない。

「いつものようにキメて ブッ飛ばそうぜ!」

 笛吹けど踊らず。必死に鼓舞するがどんどん抜かれる。

「あとたった4kmだよー」

あと4kmということは38km地点に来たということか。目標の3時間30分は余裕だと思って少しすると37kmという表示が見える。あのおじさんはフルマラソンの2.195kmを失念しているに違いない。

ようやく40kmを通過した時には「あと少し」というより「まだ2kmある」という感じだ。この2kmが曲者である。走っている間はずっとペースを気にしているが、この2kmが計算の邪魔をし、予測タイムと残り体力の予定を狂わせる。あらかじめ分かっているのにこの距離の不思議を感じた。

最後は競技場を半周走り、ゴール。高校生にメダルをかけてもらう。メダルには「いにしへの奈良の都の八重桜・・・」と刻まれていた。

最近太った?

ランニングや登山について書き綴っておいてなんだが、最近体重計の乗ると以前より1kgか2kg増えていた。このまま自然な流れで中年太りになりそうで恐ろしい。山仲間から「いいかげんBODY」の謗りを受けないように対策が必要だ。クライミングやランニングとはすなわち体重との戦いなのだ。

通常、病気になりにくいのはBMIが22くらいとされる。私は172cmだから65kgがちょうどいいはずだが、格闘家並に鍛えないとぽっちゃりとした外見になってしまう。実際にはぽっちゃり体形の方が身体に抵抗力があり、いわゆる健康体なのだが、世間的には「不健康」として印象付けられてしまう。

 

大学時代、中国語の講師がこんな話をしていた。

「日本人は若くてスリムな人を好みますが、中国ではカンロクがないと言われます。太ってて老けた顔の人の方が好まれます」

都市部では日本や韓国と同様にスリム嗜好が広がっているが、農村部はまだ太っている人の方が好感を持たれるらしい。

古来「太る」は富の象徴であり、「老ける」は智の象徴だ。現在でも中国ではまだその価値観が残っているようだ。

現代の日本で太ることについて、「抑制が効かない」、そして「いい加減」ということからネガティブな印象となってしまう。いい加減な人間であれば仕事もできず、稼ぎも悪いだろうし、金遣いも荒いだろう。日中で太ることが「富」の象徴である考えから、反転して太ることが「負債」の象徴となってしまった。

 

アメリカのニュース映像で、'We are Beauty'と言って肥満への偏見に対する抗議を行っているデモ行列を見たことがある。力めば力む程美しくないぞと思うのだが彼・彼女らには深刻な問題なのだろう。アメリカでは低所得者の肥満が深刻化しているらしいが、肥満に対する偏見は低所得者への偏見ということになるのだろうか。


いずれにしても肥満が復権するまでは私はスリム君で頑張りたい。

なまえ呼び運動

確か就職したての頃、社内では役職ではなく名前で呼称しようという運動があった。「あった」というのはどこかで雲散霧消してしまったからだ。そんな運動があっても役職を付けて呼ばなければ機嫌の悪くなる人もいて、なかなか面倒だった。そのうち誰も言わなくなったので呼称は人それぞれとなった。

 

最終的に私は役職を付けて呼ぶ人と名前で呼ぶ人を分けている。決してその違いを本人には言わないがその秘密を告白しようと思う。

私は人間的に尊敬できる人は名前、そうでない人は役職で呼んでいる。

普通逆ではないかと思う。日本人は古来から高貴な人を名前で呼ぶのは失礼として尊称で呼ぶ習慣がある。

現代において高貴な尊称とは何だろうか。社長も理事も首相もただの一過性の役職である。辞めたらただの人だ。

野口健さんが幼少期に父親に「自分の名前が肩書になる生き方をしろ」と言われたそうだ。いい言葉である。

 

私が尊敬できる人を名前で呼称するのは、その役職を辞めても付き合いたいからである。裏を返せば役職で呼ぶのは役職がなければ誰がお前なんかと口を利くか、というわけだ。

我ながら意地が悪いなと思う。

走ることについて-4

2017年の梅雨入り前、私は花巻の宮沢賢治記念館に行った。

宮沢賢治は『注文の多い料理店』などの不思議な世界に引き込まれる雰囲気が好きだが、かと言って特に筋書きに思うところはなかった。なぜ無闇に教科書などへ採用するのか理解に苦しむ。強制的に読まされ、現代の常識人の強引な解釈に付き合わされるだけではないか。

岩手に行ったのは翌日「いわて銀河チャレンジマラソン」に出るためであり、せっかく行ったついでである。

久しぶりに宮沢賢治の作品に触れると感じるのは世界の不完全性だ。『やまなし』などは教科書に採用してどうしようというのか。宗教や思想を学び、日蓮宗に傾倒していた賢治には確たる思想があったと思われるが、物語の世界観は隙間の多い茫漠としたもののように感じる。ただ、その隙間が物語の欠陥になっているわけではない。隙間のない完全な器を作った途端に物語は読者を作者の作った牢獄に閉じ込めてしまい、物語そのものの魅力を著しく減じてしまう。

梅雨入り前の雨の土曜日、宮沢賢治をしばし楽しんで、スタート地点の北上に向かった。

 

今回は岩手県北上から花巻を経由して雫石までの100kmを走る。100kmはほぼ箱根駅伝の東京日本橋から箱根に相当し、旅行と言っても差支えない距離となっている。

日の上るはるか前、4:00に私はスタートラインに着いた。ウルトラマラソンはフルマラソンにも飽きたベテランランナーが多い。大概が太腿の筋肉が逞しく、日焼けした鉄人たちだ。巷にこれだけのアスリートがあふれていることに改めて驚いた。

真っ暗闇の中、スタート。1時間もするとぼんやり明るくなってきた。コースは競技場を出ると、田園風景の中を通る舗装道路を進むことになる。息を切らして走るわけではなく、みんな思い思いのペースで北を目指す。私も少し飽きたのでウォークマンで音楽を聴き始めた。

 

ランニング中に聞く音楽に決まったものはないが、この時は中島みゆきにした。幼少のときはさほど好きではなかったが、30代に入ってから妙に耳に残るようになった。彼女の歌で気になるのは「歌詞の不完全性」だ。例えば、初期の代表曲である「悪女」は「マリコの部屋へ、電話をかけて~」という歌いだしで始まる。しかし、以降この「マリコ」は登場しない。私と「あなた」以上に具体的に名前を示されているこの人物が「私」とどのような関係なのか一切語られることはない。

また、「わかれうた」ではこのような場面がある。

「別れの気分に味を占めて あなたは私の戸をたたいた 私は別れを忘れたくて あなたの眼を見ずに戸を開けた」

これだけでは状況がよくわからない。なぜ別れるはずの二人がまた顔を合わせるのか。男(あなた)はどういう意図なのか。なぜ女(私)はその戸を開けるのか。中島みゆきの歌は、物語の中に角の欠けた部分がある。しかし、それは魅力を減じるものではなく、むしろ欠けた部分を聞き手に想像させることでより歌の世界に深みを与えているような気がする。

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45km地点から長い坂道に入った。宮澤賢治の物語にも出たという「なめとこ山」だ。日の出から霧雨が降ったりやんだりしている。

ここまではかなりオーバーペースで来た。40km地点で3時間40分だから、フルマラソンならサブ4(4時間切り)達成である。足の動きが嘘のように緩慢になった。まだ半分しか来てないのだ。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は川端康成『雪国』の冒頭だが、なめとこ山の坂の頂上にもトンネルがあり、そこを抜けると地元女子高生たちが待っていた。

休憩所でバナナやスポーツドリンクをもらい、手洗いを済ませて一息つく。もう序盤のような勢いはない。ゆっくり進むしかない。

休憩所からは坂を下ってダム湖に下りた。

 

70kmはちょうど7時間で通過した。制限時間14時間の大会なので、残り30kmを7時間で進めば完走できる。つまり歩いてもゴールできる目処がたったのだ。

80kmあたりから股関節、膝、太腿が痛くなり始めた。途中で故障したら、横浜の時のように気を失ったら全ては水の泡、100kmマラソンは不完全に終わる。陽が出始めたのを完走への吉兆と思うことにした。

 

100kmマラソンは孤独な闘いだ。フルマラソン以下の大会で、ランナーが自分1人ということはない。しかし、100kmにもなるとランナーはばらけて前後に人が見えない瞬間がある。走るのは自分1人、コースは車も人もいないところが多い。1人で何をしているのだろうと思わなくはない。大会と言いながら、ただ1人で走っているだけなのだ。この感覚が逆に100kmならではの心地よさでもある。

 

「いわて銀河」の名はもちろん、花巻の作家・宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を冠したものだ。この物語は賢治の最大の「未完の大作」とされる。確かに主人公・ジョパンニは街中にいたが、場面は突然銀河鉄道に入ってしまい、肝心の銀河鉄道とは何かがわからなくなっている。結果、銀河鉄道を下りるということについてさまざまな解釈が出されている。しかし、この銀河鉄道とはが作者によって提示されていたとしたら、このように有名にはならなかったのではないだろうか。

銀河鉄道の夜』は不完全な物語だ

。しかし、不完全な物語だからこその完成度がある。ミロのヴィーナスの腕がないように欠けた物語の美しさだ。

 

90kmを過ぎると足はまるで自分の身体でなくなったようだ。止まっていても走っていても同様の痛みが走り、動かしている感覚すら薄れていく。果たして完走したら感動するのだろうか。何に対して感動するのだろう。

私は100kmマラソンをあと少しで完結させる。それによって私の人生という物語は完璧に少し近づいたのだろうか。10時間を超える苦行は私に何を与えてくれただろう。

 

午前4時に北上運動公園をスタートし、午後2時30分雫石運動公園にゴールした。記録は10時間30分。初めてにしては早いが、100kmランナーとしての勲章と言える「サブ10(10時間切り)」は達成できなかった。

地元高校生が引くゴールテープを切った途端、猛烈な足の痛みに襲われた。もはや歩くのも、静止しているのも痛い。受け取る荷物は異常に重く感じ、シャワーを浴びるのにウェアを脱ぐのにも苦労する。しかし、この時出場したことに後悔はなかった。来年も出るかと聞かれると返事を躊躇するのだが。

 

ある意味でフルマラソンを超えるウルトラマラソンは究極の酔狂と言える。舗装道路を走ることに凄みはないが、50kmを超える距離を走ることは、一般の人からすると「正気ではない」。省エネ時代にとてつもないエネルギーの無駄遣いだ。

しかし、私はこの「正気に欠けた」行為を真剣に行うことで人生という物語に「欠けた」魅力を付けようとしたのだ。少し欠けた『銀河鉄道の夜』のように。

 

走ることについて-3

私はわりと過去の記憶がいい。なんでもない景色、エピソードをよく覚えていて、家族や知人に驚かれる。ただ、それは比較的無口で、独りでいるときに過去の出来事を昔漬け込んだ梅干しを床下から取り出すように味わっていたからかもしれない。

走る記憶として幼稚園の運動会が残っている。リレーでバトンを受け取り、コーナーで転倒した。ただ痛みに鈍感な私は泣きもせずに起き上がるとそのまま走って次につないだ。

当時の私には転倒もビリでつないだことも負の記憶にならなかったようだ。負の記憶は見事に私の歴史から抹殺されている。

 

ここ数年は記憶が残ってない。特に会社での出来事については頭にデリートボタンがあるかのようだ。

一方で最近の時系列は休日の日程によって記録されている。例えば2015年は1月甲斐駒ヶ岳、5月大杉谷、9月熊野古道、12月西穂高岳という具合だ。登山以外の記憶がない。

 

三浦ハーフマラソンの後も走っていた。大会には出ていない。路上では得られない刺激がほしくなり、雪山や少しレベルを上げた登山を目指していた。当然体力は必要なのでもっぱら体力強化のために走っていた。

女性は33歳が厄年だという。確かに周りにも厄年に色々な異変のあった女性が多い気がする。本人の自覚がなくても、人生の中での転機が身体や意識の変化とともに現れるものらしい。ある意味この時期は私の人生と走ることについての厄年だった気がする。

2016年3月に再びマラソン大会に出場した。ずっとトレーニングは続けていたので完走の自信はあった。まがいなりに平日5kmほど走り、週末は10km走った。しかし、全てを走ることに捧げていたわけではない。多少走っては、夕方には酒を飲み寝ていただけだった。

 

2016年の大会は悲劇に終わった。

大会の号砲が鳴って1時間後、気がついたら仰向けに寝ていた。空は不機嫌そうな灰色だった。何が起きたかわからず起き上がろうとすると止められた。しばらくして救急車に搬送され、頭を検査し、顔の傷を縫われた。

帰路は、途中棄権のショックより最近の怠惰な生活を思い返していた。

八ヶ岳のバリエーションルートや丹沢の沢登りなど、何かを振り払うように危険に身を投じていた。玄人からすればどうとでもない活動だが、精神が荒んでいたのは確かである。

しかし、『月と6ペンス』のストリックランドのように何かに完全に身を捧げることはできてなかった。

 

サマセット・モーム『月と6ペンス』はゴーギャンをモチーフにした画家を描いた作品である。ゴーギャンが奇行とともに多少の社会性を持っていたのに対し、本書の中心人物であるストリックランドは社会性や人間性をも捨てた所謂「壊れた人」だ。絵のために家族を捨て、人妻を奪い、そして捨てた。全ては絵のためであり、家族を捨てた後の半生を絵に捧げてしまう。

この本を読んだ直後、飯嶋和一『始祖鳥記』を読んだ。主人公の幸吉は常識的な市井の人としてくらしながら飛ぶことに異常な執着を持つ。そして社会的地位や名声を捨て去ることを覚悟で空を飛ぶ。

両者の共通点は行為に理由はないのに人生をあっけなく差し出してしまうことだ。一般的には狂気と言えるだろう。しかし、狂気という言葉より'crasy'と言った方が適当かもしれない。ただ「狂っている」というより「熱中する」の意味が複合するからだ。

当時の私に足りなかったのは'crasy'になることだった。

 

初めてマラソン大会に出た頃と共通していたのは、この時期も最悪に仕事へのモチベーションが下がっていたことだ。それを振り払うためにフルマラソンに出場したが、何かが私を叩き落とした。

走ることの神がいるとしたら走ることに純粋になれていない私を払い落としただけだった。

走ることについて-2

競技として以外で走ることについて言葉にして語っている人は珍しい。何かの文章で日本人はテニスをしても、相手を打ち負かすことに熱中してしまい、球を打つ楽しみを持たないと読んだ。全ての日本人にあてはまるわけではないが、スポーツと称する以上は目的がないと熱心にできない人が多いのも事実だ。

競技ランナー以外で走ることを文章にしているのは村上春樹さんくらいで、『走ることについて語るときに僕の語ること』という長いタイトルの本になっている。登山についてはエクストリームな人以外も随分語る人が多い。走る人で語る人がこれほど少ないのが意外だった。

考えてみれば、走るということを最終目的にしている人は少ない。私にしてもそうだ。体力強化が発端であり、その後は登山の基礎トレーニングとしての位置づけである。大会を目的にしている人は多いが、トップ選手でもなければ語ることは少ない。いやなくはないが、大会会場に行くと、自分よりはるかに速いランナーがごまんといて、語るのもおこがましい気持ちになるに違いない。しかし、私はその愚かを承知でこの文を書いている。

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

休日にランニングをしていると話すと、「理解できない」という反応が返ってくることがある。ただ肉体を鍛錬する求道者というイメージなのかもしれない。飽きないかということも聞かれる。

走っていることが楽しくて仕方ないというわけではない。暑い日は疲れるし、坂道は辛い。なぜ走っているのだろうと思わないことはない。いつも走りながら走る意味を考えている。

 

国語の教科書にも採用される、太宰治走れメロス』は殺されるために走るということを主題にしている。これは友人を救うためという点で走ることを下支えしているが、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』に登場する「テヘランの死神」の逸話では、ある男が死神から逃れるために走り、その先に死神が待っている。マラトンから走った兵士がアテネで息絶えたように、走った先に「死」が迎えるという物語が多いような気がするのは気のせいだろうか。

「走る」という行為は健常者なら誰でも行うが、物語の中で走るのは主に異常事態である。健脚の異名である「韋駄天」も仏舎利を奪われるという異常事態に直面して走ったに過ぎない。

普段から走り回っている現代人は健康に見えてどこかに異常な因子を抱えているのだろうか。

 

大学入学前に走り始めた私が再び走ることに興味を持ち始めたのは二十代半ばになってからである。

会社の先輩から誘われて初めてマラソン大会に出た。マラソンと言っても最初は10kmだ。確か最初の大会は55分、2回目は47分だった。10kmなら完走は当たり前。タイムが出ると次第に練習にも熱を帯びることになった。

帰宅後、着替えて毎日5km走った。同じコースを走ると次第に身体が慣れ、速くなっていく。もともと太ってはいないが、体重は60kgを割り込むようになった。

この頃、仕事がつまらなくなっていた。日中の大半を費やす仕事がつまらないのではすなわち人生の不幸だ。私の思考は負のスパイラルに入っていた。はたから見れば健康的だが、精神の不健康に対してバランスを取るために身体をいじめていただけだ。当時の私は誰に打ち勝とうとしていたのだろう。

 

10kmを2回経験した後、初めてハーフマラソンに出た。三浦半島の海岸、城ヶ島周辺を廻る大会だ。関東近辺ということもあり、首都圏のランナーが集まる大きな大会だった。

号砲が鳴り、すぐにコースは三浦霊園という墓地に入っていった。墓地は丘を切り開いて作られており、長い坂道を登ることになる。

終盤を考えればここで体力を温存しなければならないのかもしれない。しかし、周りの雰囲気に飲まれた私は自分のペースがわからぬまま前にいる人をひたすら抜くことに執着していた。

コースは城ヶ島で折り返し、三浦海岸のゴールを目指す。折り返して城ヶ島にかかる橋に上がった時、自分がオーバーペースで来たことを知った。コース終盤の海岸は起伏が激しく、序盤の疲れが預けていた荷物のように返ってくる。陳腐な表現だが身体が言うことを聞かない。

身体の次は靄がかかるように思考が働かなくなる。なぜ走っているのかわからかなくなり、とにかく止まらないことだけしかできない。

「歩くな!歩くな!」

自分自身にこれだけ言い聞かせる。たかがハーフマラソンだ。完走したって誰が褒めるわけでも、収入が増えるわけでも、世界が少し良くなるわけでもない。それでも最後まで走ることだけを目的に動き続ける。この瞬間、大袈裟ではなく私は走るためだけに生きていた。

 

マラトンの使者もアテネで自分が死ぬなどこれっぽっちも考えなかったに違いない。そしてアテネの市民に勝利を告げるなど走るきっかけであって走る目的ではなくなっていたのではないだろうか。

きっとメロスも実在したなら、走る先に死があるなどもはや走る自分とは関係はないことに思えたに違いない。

永遠とも思えた海岸の坂を最後に下るとゴールがあった。ゴールしてタイムを見たがそれがどれほどの意味を持つのかわからなかった。

走ることについて-序

大学受験浪人が終わった次の日、走ろうと思った。特に理由はない。数年を受験勉強に費やしやることが思いつかなかっただけだ。

それから断続的に10年以上走り続けている。

 

なぜ走るか。聞かれても大した理由はない。

登山のスタミナ維持、体力増強、単に健康のため。実はだんだん不明確になるのに、それでいて前より熱心に続けている不可思議な活動だ。

最初は鈍った身体を引き締めるためだったが、目的を達成してもなお続けている。おそらく、走ることで今まで見ることのなかった景色が目の前に現れる魅力に取り憑かれたものと思われる。

浪人時代は、どこかで人生を足踏みしている感覚が拭えなかった。同級生は輝かしい大学生という身分を手に入れている。私は大学入学を確定させたその日から再び前に動き始めたい衝動に駆られていた。

 

最初に走った長距離は、実家から8キロ離れた磐船神社だった。往復16キロになる。

走ってみると意外と完走できた。フルマラソンとまでいかなくてもその三分の一は走れるのだ。マラトンの戦場を離れた1人の兵士はアテネの市民に自国の勝利を告げ、次の瞬間には息絶えた。生きながらえる自分には16キロくらいが健康維持にはちょうどいいのかもしれない。

 

特に何の目的も主義も哲学もない19の春だった。