クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

走ることについて-4

2017年の梅雨入り前、私は花巻の宮沢賢治記念館に行った。

宮沢賢治は『注文の多い料理店』などの不思議な世界に引き込まれる雰囲気が好きだが、かと言って特に筋書きに思うところはなかった。なぜ無闇に教科書などへ採用するのか理解に苦しむ。強制的に読まされ、現代の常識人の強引な解釈に付き合わされるだけではないか。

岩手に行ったのは翌日「いわて銀河チャレンジマラソン」に出るためであり、せっかく行ったついでである。

久しぶりに宮沢賢治の作品に触れると感じるのは世界の不完全性だ。『やまなし』などは教科書に採用してどうしようというのか。宗教や思想を学び、日蓮宗に傾倒していた賢治には確たる思想があったと思われるが、物語の世界観は隙間の多い茫漠としたもののように感じる。ただ、その隙間が物語の欠陥になっているわけではない。隙間のない完全な器を作った途端に物語は読者を作者の作った牢獄に閉じ込めてしまい、物語そのものの魅力を著しく減じてしまう。

梅雨入り前の雨の土曜日、宮沢賢治をしばし楽しんで、スタート地点の北上に向かった。

 

今回は岩手県北上から花巻を経由して雫石までの100kmを走る。100kmはほぼ箱根駅伝の東京日本橋から箱根に相当し、旅行と言っても差支えない距離となっている。

日の上るはるか前、4:00に私はスタートラインに着いた。ウルトラマラソンはフルマラソンにも飽きたベテランランナーが多い。大概が太腿の筋肉が逞しく、日焼けした鉄人たちだ。巷にこれだけのアスリートがあふれていることに改めて驚いた。

真っ暗闇の中、スタート。1時間もするとぼんやり明るくなってきた。コースは競技場を出ると、田園風景の中を通る舗装道路を進むことになる。息を切らして走るわけではなく、みんな思い思いのペースで北を目指す。私も少し飽きたのでウォークマンで音楽を聴き始めた。

 

ランニング中に聞く音楽に決まったものはないが、この時は中島みゆきにした。幼少のときはさほど好きではなかったが、30代に入ってから妙に耳に残るようになった。彼女の歌で気になるのは「歌詞の不完全性」だ。例えば、初期の代表曲である「悪女」は「マリコの部屋へ、電話をかけて~」という歌いだしで始まる。しかし、以降この「マリコ」は登場しない。私と「あなた」以上に具体的に名前を示されているこの人物が「私」とどのような関係なのか一切語られることはない。

また、「わかれうた」ではこのような場面がある。

「別れの気分に味を占めて あなたは私の戸をたたいた 私は別れを忘れたくて あなたの眼を見ずに戸を開けた」

これだけでは状況がよくわからない。なぜ別れるはずの二人がまた顔を合わせるのか。男(あなた)はどういう意図なのか。なぜ女(私)はその戸を開けるのか。中島みゆきの歌は、物語の中に角の欠けた部分がある。しかし、それは魅力を減じるものではなく、むしろ欠けた部分を聞き手に想像させることでより歌の世界に深みを与えているような気がする。

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45km地点から長い坂道に入った。宮澤賢治の物語にも出たという「なめとこ山」だ。日の出から霧雨が降ったりやんだりしている。

ここまではかなりオーバーペースで来た。40km地点で3時間40分だから、フルマラソンならサブ4(4時間切り)達成である。足の動きが嘘のように緩慢になった。まだ半分しか来てないのだ。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は川端康成『雪国』の冒頭だが、なめとこ山の坂の頂上にもトンネルがあり、そこを抜けると地元女子高生たちが待っていた。

休憩所でバナナやスポーツドリンクをもらい、手洗いを済ませて一息つく。もう序盤のような勢いはない。ゆっくり進むしかない。

休憩所からは坂を下ってダム湖に下りた。

 

70kmはちょうど7時間で通過した。制限時間14時間の大会なので、残り30kmを7時間で進めば完走できる。つまり歩いてもゴールできる目処がたったのだ。

80kmあたりから股関節、膝、太腿が痛くなり始めた。途中で故障したら、横浜の時のように気を失ったら全ては水の泡、100kmマラソンは不完全に終わる。陽が出始めたのを完走への吉兆と思うことにした。

 

100kmマラソンは孤独な闘いだ。フルマラソン以下の大会で、ランナーが自分1人ということはない。しかし、100kmにもなるとランナーはばらけて前後に人が見えない瞬間がある。走るのは自分1人、コースは車も人もいないところが多い。1人で何をしているのだろうと思わなくはない。大会と言いながら、ただ1人で走っているだけなのだ。この感覚が逆に100kmならではの心地よさでもある。

 

「いわて銀河」の名はもちろん、花巻の作家・宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を冠したものだ。この物語は賢治の最大の「未完の大作」とされる。確かに主人公・ジョパンニは街中にいたが、場面は突然銀河鉄道に入ってしまい、肝心の銀河鉄道とは何かがわからなくなっている。結果、銀河鉄道を下りるということについてさまざまな解釈が出されている。しかし、この銀河鉄道とはが作者によって提示されていたとしたら、このように有名にはならなかったのではないだろうか。

銀河鉄道の夜』は不完全な物語だ

。しかし、不完全な物語だからこその完成度がある。ミロのヴィーナスの腕がないように欠けた物語の美しさだ。

 

90kmを過ぎると足はまるで自分の身体でなくなったようだ。止まっていても走っていても同様の痛みが走り、動かしている感覚すら薄れていく。果たして完走したら感動するのだろうか。何に対して感動するのだろう。

私は100kmマラソンをあと少しで完結させる。それによって私の人生という物語は完璧に少し近づいたのだろうか。10時間を超える苦行は私に何を与えてくれただろう。

 

午前4時に北上運動公園をスタートし、午後2時30分雫石運動公園にゴールした。記録は10時間30分。初めてにしては早いが、100kmランナーとしての勲章と言える「サブ10(10時間切り)」は達成できなかった。

地元高校生が引くゴールテープを切った途端、猛烈な足の痛みに襲われた。もはや歩くのも、静止しているのも痛い。受け取る荷物は異常に重く感じ、シャワーを浴びるのにウェアを脱ぐのにも苦労する。しかし、この時出場したことに後悔はなかった。来年も出るかと聞かれると返事を躊躇するのだが。

 

ある意味でフルマラソンを超えるウルトラマラソンは究極の酔狂と言える。舗装道路を走ることに凄みはないが、50kmを超える距離を走ることは、一般の人からすると「正気ではない」。省エネ時代にとてつもないエネルギーの無駄遣いだ。

しかし、私はこの「正気に欠けた」行為を真剣に行うことで人生という物語に「欠けた」魅力を付けようとしたのだ。少し欠けた『銀河鉄道の夜』のように。