クモノカタチ

山から街から、雲のように思いつくままを綴ります

旧大和街道・暗峠を登る

年末年始は相方と互いの実家に行くのが恒例となっている。さらに互いの祖父、祖母の家も合わせると5日間で計4ヶ所を巡る旅となった。

今回は名古屋、岐阜、神戸、奈良を行脚したのだが、車移動が多いので1月2日は初詣がてら暗峠(くらがりとうげ)というところに行って来た。

暗峠とは国道308号線、大阪と奈良を結ぶ街道の難所だったところだ。

明治以前、大阪から奈良へ行くにはそこを隔てる標高600mほどの生駒山を越えるしかなかった。その旧街道のピークが暗峠で「くらがりとうげ」と読む。説明によると鬱蒼とした木々に覆われていたため、「鞍借り」という名が「暗がり」へと変化したのだという。

今は棚田が道の脇に広がり非常に気持ちがいい。日本の棚田百選には入っていないようだが、なぜだろう。

傾斜が強く「酷道」などと言われることもある。特に大阪側は30℃ほどになるところもあり、私も自転車を押して歩いたことがある。今回は正月の腹ごなしにいい道だった。

奈良は古都として有名なわりに京都のようなポピュラーさがない。

それというのも西は生駒山、東は伊賀上野といった山間部に分断され、東西から入るには、この暗峠を越えるか、山間部を縫う柳生街道を使うしかなかったのだ。

現在は生駒山を貫く生駒トンネル、第二阪奈道路や山を越える阪奈道路などいろいろある。それゆえ暗峠のある国道308号線は忘れ去られた街道として、密かな人気を博しているのか、この日は人や車、バイクがひっきりなしに行き来していた。

正月だけに道沿いのお地蔵様や観音様の花もきれいだ。

こんなのんびりウォークもたまにはいい。

杵築の大坂と味噌〜九州、山と街の温泉旅④

年も明けたので去年の旅はそろそろ最終回にしようと思う。

 

今回の旅の真打、法華院温泉九重山登山を終え、別府で温泉に浸かって最終日は杵築へ向かった。杵築は昨年も行ったところで杵築城の城下町だ。熊本城に始まり、杵築城で終わる。城 to 城の旅となった。

杵築は杵築城を中心とした城下町。中世からある木付が近世に入って杵築となって現在に至る。

大坂、江戸、熊本が堀や川を使った城塞都市だったのに対して、規模の遥かに小さい。杵築は川に囲まれた台地を利用して街を形成していて、高台は防衛の主軸になる武家屋敷や寺院が建ち、谷間に町家が並ぶ。武士の住む高台は町屋のある谷で二箇所に分断されていて、急な坂が向かい合っている。こういう景色は珍しい。

杵築に向かった目的は糀。

去年、相方が糀を買って味噌を漬けたところ、思いの外美味くできたので、再び作ろうということになった。

中に入ると腰の少し曲がった小柄なおばあさんが1年前と同様に対応してくれる。相方が糀の量を訊くと奥からその息子と思しき男性が出てきて丁寧に教えてくれた。去年と同じものを作るには、去年作った味噌を今年のものに混ぜるといいらしい。糀菌が生きるので、味が近くなるという。

結局、糀を1.5kgも買い、バックパックは行きをはるかに超える重量となった。

武家屋敷や寺院を見学し、名物の坂を登ったり下ったりして、おしゃれなイタリアンカフェで食事をし、バスで大分空港へ向かった。

いつもと違う展開。その「いつも」なら飯も食いはぐれてコンビニでパンでも買うところだ。今回は3泊4日でかなり緩い旅だった。たまにこういうのもいいかもしれない。

久住山、霧と吹雪と霧氷を彷徨う〜九州、山と街の温泉旅③

新年を迎えたけど、とりあえず年末山行の続きの話。

 

入山2日目。星空は見えるような見えないような。

久住山に向けて登り始めると小雪が舞いあたりは霧となった。登山者のトレースは昨晩の風で消え、夜に徘徊した動物の足跡だけが付いている。

法華院温泉から少しづつ上がると急に平らな踊り場が広がった。こういう所が一番嫌だ。地面は雪に覆われていて、視界も効かず、迷う可能性大。

なんとなく歩きやすいルートを見極めて進むが、時折現れる岩のどちらに進むかわからなくなる。なんとなく直進すると、膝まで潜る雪に変わり、一度戻ると目印を見つけたり。

気温は-5℃くらいか。手先は冷えるが、寒さは感じない。

久住分かれから久住山へ登る。下から見ると大きな山に見えたが、登ってみると分岐から30分ほどで頂上に着いてしまった。相変わらず展望はない。

 

頂上に着いて、少しすると太陽がようやく雲の向こうから見えた。

少し暖かくなるかと思ったら、また暗くなる。仕方ないので下山を始めたら、登りと反対側、南登山口方面に下ってしまい、再び登り返す羽目になった。

久住分かれにようやく戻り、避難小屋で荷物を整理して手袋を交換。

そこでフリーカメラマンというお兄さんと少しおしゃべりをする。この方、特に山岳カメラマンというわけではなく、先日までは七五三を写真を撮っていたらしい。

それにしても九州に入ってからいろいろな人に話しかけられる。関東の山では話すどころか山でもマスクの人がいて、近寄れない雰囲気なのだ。九州の方が人と人との距離が近い。

久住分かれから牧ノ戸峠方面に下るとたちまち人が増えた。こちらがメインルートらしい。それと同時に雲が切れ始める。これから下山というのがなんとも悔しい。

バスは11時2分予定。

時間に余裕があったので、名残惜しく写真を撮ってからの下山。

登山口で荷物を整理していると、再びおじさんに声をかけられた。

「雪山の訓練とかって何か受けてるの?すごい荷物だね。われわれなんかこの辺を歩くだけだよ」

おじさんは独りでしゃべっていてこちらの話なんか聞いちゃいないのだ。それでもこちらも楽しくなるノリで、このフレンドリーさこそ九州という感じがする。

久しぶりに寒い中で人と温泉の温かい登山ができた気がした。

法華院温泉に入り九重連山を望む〜九州、山と街の温泉旅②

2日目は朝から雨。

熊本駅から7時半発のバスに乗り込み、くじゅう山登山口を目指す。利用したのは九州横断バスというもので、熊本駅から大分まで九州を突き抜ける長距離路線だ。熊本駅から登山口まで3時間半以上かかり、スタートは11時半過ぎになっていた。

とはいえ初日は法華院温泉までで、3時間くらいののんびりコース。

山に囲まれた平原に坊がつるというところがあり、広々テントが張れるらしい。下の写真の茶色い部分が坊がつるである。

雪はまあまあ積もっていた。

久住山は1700m台なので、関東では丹沢山雲取山の間くらい。ただ、冬型の気圧配置になると北からの風を受けるので、大雪となる。

この日の歩き始めはやはり雪がちらついていた。

そんなこんなで法華院温泉に到着。

坊がつるにテント泊するつもりだったけど、温泉の後に湯冷めしそうなので、温泉前のテント場に宿泊することとした。大船山方面が綺麗だ。

テントでコーヒーを飲み、周辺をしばらく散策していると空がどんどん晴れてきた。雪に輝く景色は3000m以上あるように見える。

さて今回の主目的、法華院温泉へ。

山の出湯と言えば、今年は北アルプス高天原温泉へ行った。ここはトタンの掘っ立て小屋か目隠しなしの湯舟のみだった。

法華院温泉は立派な建物でドライヤーまで付いている。湯はややぬるめだが、窓の奥には絶景の山を望める。関東なら平日、冬季を問わず満員だろう。この日はテント泊はわれわれのみ。小屋泊まりを含めてもあと3人しか見かけず、温泉は独占状態だった。

さらにありがたいのが自炊室が解放されていること。

古いキスリングやピッケルを飾っており、休憩するにもいい雰囲気。

さらにさらにありがたいのはビールが安いこと。下界より少し高い程度で山荘の方によると、主人が「酒だけは値上げしない」との硬い決意があるらしい。その決意に負け(という誘惑に負け)ロング缶でビールを飲みつつ鍋の準備。無印良品胡麻味噌担々鍋を食べるとすっかりあたりは暗くなっていた。

見上げると星空。次の日を楽しみにして、この日は早々に寝ることにした。

熊本城の過去、現在〜九州、山と街の温泉旅①

ついに来た。まあ去年も来た九州旅。

おそらく年明けまで続くことになろうけど。ボチボチ書いてみたい。

北の旅の開放感と違った、のんびりした雰囲気が九州の魅力だ。今回のテーマは温泉である。

羽田空港発8時の便に乗り込み、初日は熊本へ。富士山が綺麗だ。

初日は熊本入りしたら特に目的を決めてなかった。とりあえず熊本ラーメンで腹ごしらえをして熊本城へ。

熊本城は6年ぶりで、前回は2016年3月終わりに行った。そして4月14日に熊本で震災があった。

こちらは震災前の雄姿

熊本城は震災で大きな被害を受け、2021年に天守閣のみ復活している。

ただ、熊本城の代名詞、そり立つ石垣はまだまだ痛々しい。崩れた部分はモルタルで落石を防止している。石垣は元に戻すため、落ちたままの状態となっている。落ちた石をそのまま戻して使うらしい。日本らしいこだわりだ。完全に戻すためにはあと何年もかかるらしい。

天守閣までの動線確保のため、大きな歩道が付いていた。歩道から写真を撮っているので、目線はかなり高いがほぼ同じ位置。天守閣以外の外壁はまだ剥がれたままだ。

天守閣は熊本城周辺の地形など、ブラタモリ的解説が多くてなかなか面白い。

ただ、城の風情は完全にない状態なので、そういうものを期待すると、少しびっくりするだろう。

相方は完全に気に入って、熊本城のジオラマがないか調べていた。城の天守閣と小天守のセットはあるようだが、巨大石垣を含めてとなると自作するしかないようだ。

西南戦争で薩摩軍を破った名城だけに見どころである石垣が復活したらまた来たい。

 

そんなこんなで初日はのんびり観光旅行。

2日目からがいよいよ登山と温泉である。

誕生日とクリスマスに何もらう?

もうすぐクリスマスだ。だからといってそんなにココロオドルわけではない。

先日、「誕生日プレゼント」というわけで相方から白樺のカップをもらった。「クリスマスプレゼント何がいい?」と訊かれたものの、誕生日プレゼントをもらったばかりで物欲がそんなに湧かない。

弟は1月生まれで、クリスマスとお正月と誕生日が連続で来る。しかも、生来物欲がないのでよくわからないプレゼントは生活用品ばかりもらっていた。最初は目覚まし時計とかで、最後にもらったプレゼントはなんとゴミ箱である。それも誕生日だかクリスマスだかわからない。

私も小学生に頃にもらったプレゼントも、古銭とかでおおよそ子どもらしからぬものだった。そして中学以降はクリスマスプレゼントをねだった記憶がない。

相方なんかは7月生まれで一人っ子だ。クリスマスとちょうど半年ズレるので、適度な物欲と甘えられる環境があった。

私なんかは3人兄弟で母方の祖父母から見ると孫が8人。お年玉は親族間で厳密なカルテル(協定)が結ばれ、祖父母は誕生日プレゼントを孫に渡さないこととなっていた。

それに比べると一人っ子たる相方は親と祖父母の愛とプレゼントを一心に受けることとなったようだ。羨ましいようだが、年末に記念日の集中する私は物欲の針が壊れているので、どうも想像ができない。

 

大前研一さんに言わせると現代日本は「低欲望社会」なのだそうだ。政治も日本の将来にも期待を持たず、将来が不安なので貯蓄ばかりしてしまう。私は物へ執着は薄いし、食欲も徐々に減りつつある。低欲望の象徴のような人間だ。

現代の子どもは誕生日とクリスマスに何をねだるのだろうか。

もしも「偉く」なったら

数年前に辛坊治郎のラジオ番組に安倍晋三総理大臣(当時)が生出演したのを聞いたことがある。

辛坊治郎

「偉い人というのは肩書がころころ変わるので、私は”さん”付けで呼ぶことにしているんです。今から”安部さん”とお呼びしていいですか?」

と冒頭に話し、以降時の総理大臣を番組内では”安部さん”と呼び続けた。辛坊治郎曰く「偉い人はコロコロ肩書が変わって間違えてしまうから」だそうだ。

偉くなると何かしらの肩書が付く。ただ、肩書を付けて呼ぶかどうか迷うことがある。

15年以上前に山で会った友人は後から聞くと「室長」だった。次の登山で職場の人を連れて来て、その人は部下ということだったが、”さん”付けで呼んでいて、山ではよく喧嘩して下りて来るらしい。

この2人と山に行くと、上司と部下という関係でなく付き合えるのはいいもんだと思った。

 

偉くなると肩書を付けて呼ぶのが日本の習わしだ。「浅野内匠頭殿」みたいな具合である。

古来、名前は神聖なものなので、貴人の名を下々が直接呼ぶことは許されない。「宮」や「殿」というのも本来は貴人の住む建物が呼称に変化したものだ。畏れ多いので代わりに建物や場所を呼称にするのである。

現在は一応、四民平等なので建物を呼称にすることはないが、社長を社員が”さん”付けで呼ぶことはない。

しかし、肩書付けで呼んだら最後、名前は裸のままで扱えないほど勝手に「偉く」なってしまう。偉くなったら裸の名前でなく、肩書に釣られて付き合う人も増えるだろう。

それを誇りに思う人もいるし、面白い出会いがあるかもしれない。ただ、そういう付き合いが長く続くのだろうか。

 

今のところ私自身は「偉く」ない。

その意味で今付き合ってくれている人には感謝だ。そして、日々アホなことをダラダラ書き綴っているのを読んでくれている人にも感謝感謝である。